「サクリファイス」と「抵抗・死刑囚は逃げた」― 映画とクラシック音楽(その2)

 アンドレイ・タルコフスキーの遺作「サクリファイス」のDVDはすでに手に入らなくなり、アマゾンの中古品で、なんと18,000円とか32,000円という目の玉の飛び出るような価格が付いています。
 また、ロベール・ブレッソン監督の傑作「抵抗・死刑囚は逃げた」も昨年の2月にようやくDVD化されました。(サブ・タイトルは、以前は「死刑囚の手記より」でした。)1956年の作品ですから、私が観たのは多分高校生の頃と思いますので、ようやく50年ぶりに再会できたところです。DVD化された紀伊国屋書店さんに感謝いたします。
 これが不思議な国日本の文化の置かれている状況です。こうした寂しい現象は、日本のあらゆる精神文化の領域に及んでいるのではないかと危惧しています。基準となっているのは、当然資本主義経済の枠組みでは当たり前の市場的価値判断なのでしょう。DVDに目の玉の飛び出るような価格を付けているのも、単なる文化的価値の評価というのではなく、商業的価値を見据えてのことなのでしょう。
 そう言えば、はるか昔、チャーリー・ミンガスの「ミンガス・プレゼンツ・ミンガス」のレコードが幻の名盤として、ジャズファンの垂涎の的になったことがあるのを思い出しました。多分45年前位です。勿論当時と今とでは、状況も理由も異なりますし、「サクリファイス」と「ミンガス・・・」とでは比較の対象にもなりませんが。
 ところで今二つの映画を引き合いに出したのは、これらの映画に用いられている音楽について述べるためです。すなわち「サクリファイス」のバッハ《マタイ受難曲》のErmarme dich,mein Gottと、「抵抗」のモーツアルトハ短調ミサ曲》のKyrieです。この二つを選んだのは、クラシック音楽が映画を全般的に支配しすぎている例と、巧みな使い方で映画に欠くべからざる効果及ぼしている例を比べてみたいためです。
 ご承知のとおり、Erbarme dich・・・は、《マタイ受難曲》のペテロの否認に続くドラマの山場をなす最高の場面でメゾ・ソプラノによって歌われるアリアです。人間存在の倫理の根源を問う、魂からこみ上げてくる悲痛でしかも最高に美しい歌です。それはまた、聴く者にカタルシスの涙をもたらす赦しの歌でもあります。
 この映画では、カール・リヒターVHDやDVDなどの映像版(1971年5月演奏)に出演しているハンガリー出身の名歌手ユリア・ハマリが歌ったものが使われています。この曲を聴いて、果たして心のうち震えない者がいるでしょうか。


 この映画は、かつて衛星放送などで二回ほど観ています。若干記憶の薄れていることもあり、映画そのものについては言及を差し控えますが、ただ、バッハのこの曲は、そもそもイエスの長い受難のドラマの流れの中で聴いて初めて人の心にに訴えかけ、感銘を与えるものではないかと思っています。しかし、この映画では一貫してこの曲を使い続け、主人公の心に宿す終末観を表現するためのイメージ作りの重要な要素としているように見えます。しかし、これでは音楽の力に寄りかかりすぎているのではないか、と観るたびに思っていました。映画音楽に用いるにしては、あまりに曲が偉大すぎたのではないでしょうか。
 似たような例では、ルイ・マルが「恋人たち」でブラームス弦楽六重奏曲第1番第2楽章をずっと流し続けて映画のイメージ作りに上手に使ったケースがありますが、それとバッハのこの曲とは、そもそも音楽としての貫録が違いすぎ、西洋の音楽史上最高の曲としての歴史と存在感を考えると、同日に論じることはできないと思います。

 Erbarme,dich・・・はマタイ全曲3時間の中で1回だけ聴くのが正しい聴き方なのではないでしょうか。

 ブレッソンの「抵抗・死刑囚は逃げた」は、モーツアルトの「ハ短調ミサ曲」のキリエが冒頭とドラマの中(7回ほど、短く)と、最終場面にしめやかに使われており、過度には至らず、クラシックをうまく用いた例の一つと思います。主人公の置かれた受難劇的な状況と心理、またナチスに蹂躙されていた当時のヨーロッパの黙示録的な情勢を、モーツアルトの天才が、曲の冒頭のわずかな旋律と和音だけで見事に表現しおおせているものと、ただただ感服するのみです。また、この曲を見出したブレッソンの炯眼も素晴らしいと思います。
 映画を観たときにこの曲が頭に焼きついて離れず、もちろん当時初めて聴いた曲だったので早速調べてモーツアルトの「ハ短調ミサ曲」ということが分かりました。数多くあるこの曲の演奏の中での白眉は、フィリップ・ヘレヴェッヘが指揮したもので、私たちの迷妄の闇を切り裂いて鮮烈に心を衝いてやまぬ、まさに曲の核心に迫る見事な演奏です。

 しかし、この決定的名演のCDが、国内では手に入らなくなっています。アマゾンの中古品で、アメリカから2点出品されているだけです。不思議な国日本の文化の実態をここでも垣間見ることができます。
 ところで、手に入りにくかった、1998年5月録音のヘレヴェッヘの「マタイ受難曲」が、4月30日にHarmonia Mundiでリーズナブルな値段で予約発売されることになりました。早速、楽天市場を通じて予約したところです。まさに、闇夜に灯りを見た思いです。

 ヘレヴェッヘの演奏は映像では観ることができませんので、ここではジョン・エリオット・ガーディナーの指揮で<キリエ>を観たいと思います。