ベートーヴェン〈弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 作品131〉(その2) ライナー・ノーツ風に

 この作品は、1826年6月頃、作品132の後に15番目に完成した作品で、甥のカールの軍隊入隊についてお世話になったシュトゥッターハイム男爵に献呈されています。ベートーヴェンが亡くなったのは1827年3月26日ですから、死の9ケ月ほど前の作品です。

 この曲について、各楽章についてひとつひとつ詳しく検討したものとして、デイヴィッド・ブルーム著の<「クァルテットの技法」グァルネリ弦楽四重奏団と語る(音楽之友社1990年)>があります。第1ヴァイオリンのアーノルド・シュタインハートを含む4人の団員が、実際の演奏に当たっての役割と経験からそれぞれ熱のこもった詳細な分析(実に本著書の第6章全部、78ページにわたる)を加えています。ただし、かなり専門的な部分があり、正直私のようなテクニカルに暗い素人に十分な理解は困難ですが、プロというものはいかに緻密に、細部をおろそかにせず、しかも曲の全体像を大切にするかということは何となく理解できたような気がします。<神は細部に宿る>というアビ・ヴァールブルクの言葉の意味がここでよく分かります。
(しかし、この本の中古品としての価格がAmazonマーケットプレイスで、全て1万8千円台という目の玉の飛び出るような値段が付いているのには驚きました。ちなみに私は、図書館で借りて読みました。)

 この曲は、ベートーヴェン最晩年の緊張感に満ちた孤高と言っていい作品で、7楽章という変わった構成ですが、各楽章が切れ目なく演奏され、そのうち第3、第6楽章は次の楽章へ繋ぐための助走的役割を持った間奏曲風な極めて短い楽章です。従って、単純に独立した7楽章とはとても言い切れない融通無碍な、不思議な楽曲となっています。(ただし、切れ目なく、と言っても第4楽章と第5楽章の間は、かなりきちんと分かれているようにも聴こえます。)

 この曲は次のような楽章で構成されています。(なお、演奏時間は<ブッシュ弦楽四重奏団>が40分58秒、<ブダペスト四重奏団>で38分41秒、<アルバン・ベルク四重奏団>が37分47秒、<スメタナ四重奏団>ですと36分50秒です。時代が下がると速くなる傾向にあるようです。)

第1楽章 Adagio ma non troppo e molto espressivo
第2楽章 Allegro molto vivace-Adagio
第3楽章 Allegro moderato-Adagio  
第4楽章 Andante ma non troppo e molto cantabile
第5楽章 Presto
第6楽章 Adagio quasi un poco andante
第7楽章 Allegro

 上述の本で、第2ヴァイオリンのジョン・ダレイは「一般的にこの作品は、対位法の明快なお手本です。」と言い切っています。ヴィオラのマイケル・トゥリ―は「第1楽章のテーマは最大限の厳粛さと壮大さから成り立っています。それは神秘的な瞑想とその上に深く神秘的です。」と述べています。

 この曲は、トゥリーが言うように極めて厳粛で神秘的で、かつ悲劇的な(悲痛な、と言ってもよい)フーガのテーマを持つ第1楽章から始まり、中間のアンダンテの主題の6つの変奏曲(第4楽章)を経て、第7楽章の野性的で疾走するような荒々しくしかも神々しい、聴く人の精神を解放に導くソナタ形式のフィナーレまで、ベートーヴェンが最晩年に到達し得たまだ誰も見たことのない境地―それは自らが守護神のようでもあった厳格な形式の論理を自在に超えるもの―を表現し得ています。

 この曲の演奏は、かつて評価の高かったものに、カペー四重奏団やブッシュ四重奏団があり、以後はブダペスト四重奏団、バリリ四重奏団、ジュリアード四重奏団と経て、スメタナ四重奏団やアルバン・ベルク四重奏団と続きます。もちろん、上述の本に登場するグァリネリ四重奏団もこれら加えられるべき演奏団体です。
(なお、ここで採りあげた演奏のうち、ブダペストは1958〜1961年のステレオ盤、アルバン・ベルクは1983年の第1回録音盤、スメタナはスプラフォンの1970年録音盤及びデンオン1984年録音盤。また、今回は採りあげませんでしたが、ジュリアードは1997年9〜10月の来日時の連続演奏会のライブをNHK/FMでエアチェックしたものを聴きました。)

 まず何と言ってもスメタナ四重奏団の演奏が聴くたび感謝の念が湧き起こってくる極めて感動的な演奏です。演奏家4人の音楽魂がひとつに溶け合い、まるで八つの手を持った一個のスーパープレイヤーが演奏しているかのような渾然一体感はピカイチで、あたかもベートーヴェンの音楽の根っこにある内在律そのものによって動かされているかのようです。第1楽章から第7楽章まで表情豊かに、美しさと深遠さを兼ね備えた演奏で風のように走り抜けます。









 それから、楽曲に対する深い読みを感じさせるアルバン・ベルク四重奏団の演奏が光ります。間然とするところのない彫琢を極めた名演で、力感・躍動感に富み、精神的な充実を感じます。まさに、現代におけるベートーヴェンの模範的な演奏だと思います。















 また、グァルネリ四重奏団は、卓越したテクニックでこの難曲をやすやすと、しかも見事な統一感をもって演奏しております。緻密で洗練されたアンサンブルの巧みさは、熟成したワインのような陶然とした味わいを醸し出しています。録音も優秀で、現代の名演のひとつと思います。ブダペスト四重奏団にいたボリス・クロイトから引き継いだと言われる名称は、勿論ヴァイオリンの銘器の名称でもあります。










 ブダペスト四重奏団!まさに巨人的な、永遠に聴き継がれるべき、すべての規範となるような格調高い演奏。ベートーヴェンの真髄ここにあり、と言いたくなります。

 カペー四重奏団の演奏について一言。リュシアン・カペーの濃厚なポルタメントも案外気にならず、思わず居住まいを正してしまうような崇高さを感じさせる演奏で、これが最新のステレオ録音でならどれほど素晴らしいかと想像しますが、何しろ1927年録音と言いますから、音楽の音源としては押して知るべしです。

 ブッシュ四重奏団のベートーヴェン後期弦楽四重奏曲は、2008年にデジタルリマスタリングされてEMIから発売されたものを聴きました。1936年の録音とも思えない良い音質で十分楽しめます。何と言うか、ブッシュ四重奏団の演奏は、渾身これベートーヴェンの権化かと思えるような、神韻縹渺たる名演だと思います。

 バリリ四重奏団も極めてゆっくりとしたテンポの流麗な演奏で、かつては最も聴くことが多かったものですが、モノラル録音でのレンジの狭さがネックとなり、またカペーやブッシュほどのカリスマ性もないため、残念ながら最近は聴く機会があまりありません。

 しかし、これらの四重奏団の演奏はみなそれぞれ特色を持った名演ぞろいで、実際には甲乙付けるのは難しく、それぞれ好みで分かれることはあっても、演奏自体にそれほど大きな差は感じません。

(余談)
 それにしても、アルバン・ベルク四重奏団とはよくぞ名付けたものです。もっとも、アーノルド・シェーンベルク合唱団というものもあり、ウィーンの人たちは、作曲家の名前を、ファーストネームからそのまま演奏団体の名前に頂いてしまうのが、好きなようです。普通は第1ヴァイオリン奏者の名前(カペー、レナー、ブッシュ、バリリ、ヴェーグ、メロスは第1ヴァイオリン奏者メルヒャーと他のメンバーの名前の組み合わせ)か、作曲家の名前の氏か姓のどちらか(アマデウスバルトークボロディンスメタナなど。スメタナは、さすがにベドルジハ・スメタナ四重奏団とはしていません。)。あるいは国や都市、学校・建物などの名前、あるいは楽器製作者の名前など(イタリア、ブダペスト、ベルリン、ジュリアード、ウィーン・コンツェルトハウス、ゲヴァントハウス、グァルネリ)が多いのですが、堂々と作曲家のフルネームを付けているのは、アルバン・ベルクだけと思います。(?)             (余談終り)                                  
 元来ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、作品127から135までは、一体的な音楽的成果として論じられてしかるべきものと思います。その意味で、著名な音楽学者のハンス・メルスマンが<「新訳 ベートーヴェンの本質」滝本裕造訳、美学社1993年>のなかで、後期の弦楽四重奏曲について述べている言葉は示唆に富んでいます。
「孤独な人間ベートーヴェンは周囲を見渡します。ピアノは彼の手から滑り落ち、交響曲の形式は崩壊してしまいました。大きなミサの中で表現手段を融合する前にすでに最後の境界線を超えて膨張していましたが、ただひとつ、極めて繊細なジャンルである弦楽四重奏曲だけがまだ残されていました。こうして最後の一群の創作がなされます。作品127から先品135までの四重奏曲です。」

 とにかく、作品131を含む後期の弦楽四重奏曲群がベートーヴェンの最高傑作かどうかは別にして、甥のカールをめぐる深刻な愛憎関係や耳の状態の悪化など、彼が最晩年に到達してもなお困難で抜き差しならない極限状況と尋常ではない精神状態の中で苦悩に苛まれながら、このように澄明で、厳粛で、感謝の祈りに満たされた高い境地に立つ作品を書いたというのは、まさしく奇跡と言う他はありません。