バルトークあれこれ(2)弦楽四重奏曲は面白すぎ?

 大学時代、地元(新潟)のアメリカ文化センターで借りたジュリアード弦楽四重奏団の演奏するバルトーク弦楽四重奏曲第4番のLPを聴いて稲妻に打たれたような衝撃を受けたことを思い出します。初めてまともに向き合って聴いたこの手の曲は、当時の私にはいささか毒が強すぎたようです。恐らく1962年ころのことですから、ジュリアード弦楽四重奏団の最初の全集、1950年のモノーラル盤に違いありません。
 その時借りたのは第4番だけでなく、3番も聴いた記憶がかすかにありますし、第6番も、当時書いた拙い詩にこの曲をテーマにしたものがあるから多分一緒に借りたのでしょう。恥ずかしいのですが、少し引用してみます。おこがましくも、ヨーロッパを去らねばならなかったバルトークの境遇に当時の自分の心境を重ねて表現してみたかったのかも知れません。(何という浅はかな!)
  流 亡
    ーバルトーク「第六弦楽四重奏曲」に
  ・・・・・
  ・・・・・
  絶えず「現在」という美しい故郷(ふるさと)に別れを告げ
  さようなら二度と会うことはない
  灰色の岸壁に背を向け
  やがて過ぎ去るであろう未来をみつめる
  そしてその先 水平線の彼方
  過ぎ去りえない死へ 泡立つ
  太陽の眩しい乱反射の中で
  盲いつつ辿る漕役囚
  一筋のなめくじの跡でしかない精神の軌跡を
  如何に審こう
       詩集『お委せ料理店』より
  20世紀の音楽の中では、このバルトークの6つの弦楽四重奏曲ほど千変万化の面白さに富んだ室内楽曲は他に知りません。中でも第4番以降の3曲が滅法面白く、聴いていて全く退屈することがありません。ここにはバルトークが長年心血を注いで採集分析してきた民俗音楽研究の精華があり、独特の和声やリズムとマージナルな地政学的雰囲気などと渾然一体となった天才的な曲想が奔出し、かつてない豪奢な仕上がり、いや贅沢なご馳走となっています。
 どの四重奏団の演奏もそれぞれに面白いのですが、大まかな傾向としては、ジュリアード弦楽四重奏団(音響のダイナミズムを徹底的に追求している純粋音楽的演奏)、アルバン・ベルク弦楽四重奏団西洋音楽の歴史と伝統を踏まえた派手さはないが曲の内奥に迫らんとする堂々たる演奏)、ハンガリー弦楽四重奏団(第1ヴァイオリンがイェネー・フバイの弟子であるゾルターン・セーケイということで分かるように、バルトークを最も理解していると思われる演奏家による最もマジャールの血を感じさせる、しかもニュアンスに富んだ演奏。)タカーチ弦楽四重奏団(1、と3、の性格を共に帯びた、しかも極めて精彩と表出力に富んだ演奏)に分かれます。
 個人的にはジュリアード四重奏団の1963年の演奏を最も好みますが、他の演奏もそれに負けない独特の魅力があります。つまりバルトーク弦楽四重奏曲とは、細かいことを四の五の言わなければどの団体が演奏しても面白いという超弩級の曲なのです。(初めての体験だったジュリアード四重奏団の1950年のモノーラル盤も、鋭利な刃物のような鋭さと背筋のぴんと通った厳しい姿勢に、いまだに強く心を魅かれます。)
    タカーチ弦楽四重奏団
 あえて難癖をつけるとすれば、面白すぎることです。(?)この面白さの正体は一体何だろうと考えてしまいます。この面白さは、腕っこきの演奏家にとっては曲が演奏伎倆のアッピールに適していることと無縁ではないでしょう。この面白さに魅かれてか、今日では数え切れないくらいの多くの演奏団体がこぞってバルトーク弦楽四重奏曲を演奏し、CDを発売し、you tubeにアップロードしています。バルトークは技術的にクリアーさえできれば、それなりに聴ける演奏になります。ここがベートーヴェンと大きく異なるところです。随所に腕の振るいどころがあり、中には極めてアクロバティックな演奏も見受けられます。バルトーク・サーカスとでも命名したくなります。
 比較考量するために、ベートーヴェンの作品131番の弦楽四重奏曲を、ブダペスト(1958年〜)、スメタナ(1965年)、グァルネリ、ラサール、ヴェーグ(1952年)、アルバン・ベルク(1978年〜)の各弦楽四重奏団のCDで立て続けに聴いてみました。
 それで分かったことは、バルトーク弦楽四重奏曲がいかに面白かろうと、ベートーヴェンが晩年に達した精神の高みには残念ながら及ばず、いかにしても越え難い壁が存在するということです。(これは何もバルトークに限った事ではありません。なお、ベートーヴェン以後で、独自の道筋を辿ってこの壁に最も迫っていたのはシューベルトだと思います。)
 なお上記のベートーヴェンの演奏の中では、やはりアルバン・ベルク四重奏団の演奏の、間然とするところのない緻密な構成力、ベートーヴェンのロゴスに迫らんとする眼光紙背に徹した読みの深さ、しかも気品と尊厳さのみなぎった名演にあらためて感銘を受けた次第です。
 ところで、バルトークの6曲の弦楽四重奏曲の中では、やはり第5番が最も充実していて完成度が高いと思いますが、第4番に感じられる不条理さ、酷薄さにも魅かれるものが多く、この2曲が一番聴く回数が多くなります。
 ポール・グリフィスの名著『バルトーク』(和田旦訳:泰流社、1986年10月、左下写真)の中から、弦楽四重奏曲第4番と第5番に言及している部分の一部を引用してみます。
第4番 
 ポール・グリフィスは、「『第四弦楽四重奏曲』は極度の明確さで五つの楽章に分割されており、鏡像的対称で配列されている・・・」と述べた上で、
「『第四弦楽四重奏曲』は『第三弦楽四重奏曲』のすぐあとに作曲されたにもかかわらず、これがきわめて異なる種類の作品であることは明白であるはずだ。しかしながらその相違は、スタイルと言うよりもむしろ形式の相違である。和声の点でこの新しい四重奏曲は、前作とまったく同じようにいら立たしいものであり、準打楽器的な弦楽器の扱いの点でも、前作に劣らず非妥協的である。この作品は『第三弦楽四重奏曲』と同じように、中間楽章を除けばきわめてポリフォニー的な作品でもある。実際この曲の方がカノンと転回対位法でいっそう激しく息づいており、こうした厳格な手法が顕著なさまは、この四重奏曲を『第三番』とはっきり区別する目立った形式的明快さと協力している。それはあたかも、いくぶん無定形の形式にたいして責任がある前作品の荒々しい衝突が、いまや考えうる最も強靭な構造に向けられたかのようである。」
(転回対位法は、曲全体を上下に転回することが可能な技術です。Webの<フーガの技法研究所>の記述によれば、譜面が鏡映しのように見え、具体的にはバッハのフーガの技法のContrapunctus12などに見られるそうです。)
 1923年に発表されたバルトークの自伝*は、当時の政治状況や、彼が心血を注いだ民俗音楽研究に対する音楽界の冷淡さをなど世の不条理を嘆く悲痛な調子に満ちていますが、1928年に完成された第4番にこうした心の置き方が強く反映されているのは当然かと思います。この曲はまるで世界崩壊の序曲のような、人の心を不安に陥れるような不協和音と多様に変化する弦楽器使用(バルトーク・ピッツィカートやグリッサンドなど)による神経を苛立たせる旋律とリズムに支配されています。(*『バルトーク音楽論集』岩崎肇訳:御茶ノ水書房1988年5月に収録。この自伝は、1923年にブダペストの”Az Est”という新聞社から刊行された文学、美術、科学についての家庭辞典に発表された。右下写真)
 
第5番
「『第四弦楽四重奏曲』と比較した場合の『第五弦楽四重奏曲』の相対的な和声的・形式的明快さは、特別な効果が比較的欠如していることと結びついている。バルトーク・ピッツィカートやコル・レーニョ、スル・ポンティチェロ、グリッサンド、フラジョレットが侵入してくることは、ずっと数が少ない。しかしながら『第五弦楽四重奏曲』は単調な作品どころではない。スケルツォの中心―それゆえ作品全体の中心―にくるトリオは驚くべき着想であり、単純な民謡の調べが持続低音ときわめて急速なオスティナートを背景としてきかれ、最終的にこれにその転回と長二度の変奏(ドウブル)が加えられる。そしてここで厳格なポリフォニーは分解するとテクスチャーの効果を示すが、それはリゲティの音楽を予期しているようだ。」
(最初出てくるバルトーク・ピッツィカート(bartok pizz.)を初めとする横文字の羅列はみなヴァイオリンなどの特殊奏法をふくむ演奏技法です。トリオは、この場合スケルツォの中間部を言います。オスティナートは英語のobstinateに相当し”執拗な”という意味合いから、ある種のリズムなどの音楽的パターンを執拗に反復することを指しています。とくに低音主題を反復演奏する場合に多く用られます。テクスチャーはもとは織物の織り方とか感触といった意味から、主に音の響きに関連して漠然と用いられる音楽用語で、楽曲のもとになる音の組合せ具合、あるいは音の組合せから生じる総合的な印象を言います。−分かりにくいですね。)
 また「・・・『第五弦楽四重奏曲』は、三十年間にわたり彼の頭にたえず浮かんでいた制御できない楽想をとらえていることでバルトークの究極的な業績である。」とも述べています。
 ここで、イェール大学のレジデント・クァルテットとして売り出し中のジャスパー弦楽四重奏団による<弦楽四重奏曲第4番>第1楽章(左下)と、ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の<弦楽四重奏曲第5番>第1楽章(右下)とを聴いてみます。アメリカの新旧の弦楽四重奏団による演奏です。なお、ジャスパー弦楽重奏団の第2ヴァイオリンは、日本人の丹羽紗絵さんです。時代は確実に移ろいつつあります。こうしたジャスパー弦楽四重奏団などの演奏などを聴いていると、今の若い世代は、私たち古い世代が二十世紀において経験してきた様々な悲惨な歴史的出来事のせいで、ずっとその影響下にある”この世は酷薄さと理不尽さに満ちているという世界観”さらには”諸行無常観照”などとはもはや無縁の人たちなのだという気がします。