キース・ジャレット SOLO 2014(オーチャードホール)を聴く―非対称の世界で「時」が閉じない円環となって回帰してくる。

 5月6日、オ−チャードホールでキース・ジャレットを聴く。69歳という年齢を全く感じさせない覇気がみなぎり、叙情性にも富んだ往年と変わらぬ素晴らしい演奏を披露した。一音一音に心を込め、全身全霊集中し切った演奏に深い感動を覚えた。(左は、演奏会終了直後のホール入口近くの様子)

 この日の演奏会では、聴衆に会場のアナウンスが異常なほど厳しいマナー遵守を呼びかけていた。このアナウンスが繰り返し流れる。曰く、携帯の電源を切ること、時計の電子音もダメ(この辺は他の演奏会でも求められる)、傘は倒して足元に置くこと、咳やくしゃみはハンカチで押さえること、万一こうしたことにより演奏の中断や中止に至ることがある、という。

 演奏が始まると、キースはつぶやき声やうめき声は出す、中腰で床を足で鳴らすなど、演奏に集中するほど奔放な、しかしお馴染みの演奏スタイルをとる。片や会場内は、演奏会にしては驚くほど静寂を保ち、演奏の合間でも大きな咳払いなども聴こえない。まるで金縛りにあったみたいだ。東京の聴衆は実に従順だ。(大阪では違ったらしい?権威に伏さぬ浪花人のど根性!)
 ステージ上のキースのやりたい放題と会場の静謐という非対称がなぜ許されるのか?それはキースが寄ってたかって誰もが懾伏する斯界の祭神に祭り上げられているからだ。人は誰しも神の出現を渇望している。
 また、この会場にいる誰もが、キースの演奏を今日ここに孤立したものとして聴いてはいない。過去のキースの数々の演奏が私たちの記憶の中に甦って今日の演奏と結びついているのではないか。気がつくと筆者にも、記憶(時)が対数ラセンのように永遠の曲線となって、つまり閉じない円環となって回帰してくる。

 筆者は、四十数年前に聴いたチャールス・ロイド・カルテットの『フォレスト・フラワー』を思い出していたのだ。場所は銀座のジャズ喫茶「ママ」。ピアノとドラムの素晴らしさに圧倒されて、店主からレコードのジャケットを借りてプレイヤーの名前を頭に刻んだ。キース・ジャレットジャック・デジョネットだ。これがキースの演奏を聴いた最初の記憶である。 

 演奏を終えると万雷の拍手で、日本の演奏会では珍しいスタンディング・オベーションが見られたが、立ちあがっているのは三分の一ほど。何とはなしに慣れていない、というかぎこちない感じがする。
 一方、筆者が'10年10月5日に訪れたドイツのベルリンフィルハーモニー小ホールで聴いたアンドラーシュ・シフ(バッハの「イギリス組曲」全曲演奏)の演奏会場でのスタンディングオベーションは、それはそれは凄まじいものだった。全員が立ち上がって(勿論筆者も)、極限まで高まった感動を思い切り炸裂させていた。これこそ本物のスタンディングオベーションだった。今でもその時の強烈な印象が記憶を去らない。

 写真は、演奏会当日の小ホールの様子。この夜の演奏会は、筆者にとって生涯思い出に残る素晴らしい演奏会だった。(留学中の娘と一緒に聴いた。)
 シフの演奏は、まるで振り飛ばす汗が目に見えるような、全身火の玉と化した稀に見る熱演だった。