コルトレーンが死んだ日

 ジャズを聴き始めたのは1961〜2年頃からです。最初に買ったレコードは、CBSの「ベスト・オブ・チャーリー・ミンガス」というアルバムで、どちらも1959年録音の「MINGUS AH UM」と「MINGUS DYNASTY」から選曲したオムニバスでした。それ以来、今に至るまでミンガスの大ファンです。このレコードの冒頭はこの曲「Better Git in Your Soul」でした。

 本格的に聴き込んでいったのは、大学を卒業して某銀行に職を得て上京した1964年からのことでした。それまでは専らクラシックを聴いていてジャズに暗かった私は、先ず片っぱしからジャズ喫茶巡りを始めました。当時どこのジャズ喫茶でも頻繁に流れていた曲は、リー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」とホレス・シルヴァーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」です。どちらも1963年録音のちゃきちゃきの新盤でした。それに1956年録音の、ミンガスの「直立猿人」も。また、私が上京した年に録音された、アルバート・アイラーの「スピリチュアル・ユニティ」」(『ゴースト』を含む)や、この年の12月に録音されたコルトレーンの「至上の愛」、あるいは1966年録音の、チャールス・ロイドの「フォレスト・フラワー」もジャズ喫茶で高い人気がありました。「フォレスト・フラワー」は、有楽町の「ママ」で初めて聞いたとき、ピアノとドラムスのプレイの凄さに驚いて、マスターからレコード・ジャケットを借りてプレイヤーの名前を確認したほどです。キース・ジャレットジャック・デジョネットという名前を記憶に刻んだことを思い出します。「至上の愛」を盛んに聴いたのも「ママ」でした。
 後に私は、当時惚れぬいたアイラーの「ゴースト」をメインテーマに「幽霊エキスポアンの伝説」という脚本を書き、また「豊さん」たち同人誌のメンバーもそれぞれ台本を書いて、みんなで新潟の県民会館で芝居を上演したことを思い出します。1969年のことでした。
 アイラーがジャズ・ピアノの鬼才セシル・テイラーを尊敬してこともあって、私も当時は生意気に、この二人やオーネット・コールマンエリック・ドルフィーなどを始めとするフリージャズ系のプレイヤーを好んで聴いたものです。
 当時書いた拙い詩の一節はこんなものでした。

・・・・
そう 何ケ月も前のこと
新宿二幸前の雑踏にまぎれ込んで
魂の切り売りをしていた僕は
不意にそんな手紙を突きつけられたのだ
その時碧空一杯に千切れた無数の時間が犇(ひし)めき
それから僕はアルバート・アイラー
又はセシル・テイラーを聴くために
歌舞伎町方面へ足を曳きずるのだった
   (『手紙』、詩集「お任せ料理店」)

 オーネット・コールマン来日時のパンフレットに、MJL(ジャズ鑑賞連盟)の広告名簿が載っていますが、これを見ますと、上野の「イトウコーヒー」、浅草の「フラミンゴ」、中野の「ロン」、お茶の水の「ニューポート」、新宿歌舞伎町の「ポニー」、横浜の「ちぐさ」、東銀座の「オレオ」、有楽町の「ママ」、吉祥寺の「ファンキー」、小岩の「珈琲園」、新宿二幸裏の「ディグ」、日暮里の「シャルマン」、新宿歌舞伎町の「木馬」が載っています。また独自に広告を出しているのが、神田神保町の「響」、横浜の「down beat」、明大前の「マイルス」、新宿の「びざーる」、他に「DUET」、「PIT-INN」、「jazzvillage」、「KADO」、「汀」、「four beat」の名前が見られます。当時の「スイングジャーナル」誌にも多くのジャズ喫茶の広告が載っています。

 中でも私が休日の度に頻繁に足を運ぶようになったのは、有楽町駅前スバル街の「ママ」、歌舞伎町コマ劇場近くの「ニュー・ポニー」、それに新宿の旧富士銀行隣り地下の「びざーる」でしたが、今この中で残っている店はありません。当時のジャズ喫茶の盛況ぶりと今を比べるとまさに隔世の感があります。奇しくも、私はモダン・ジャズが最も生気溢れ、今に残る傑作が次々生まれていた時代の真っ直中の空気をリアルタイムに吸っていたのでしたが、当時は全く気付きませんでした。しかし図らずも、ジャズ史上燦然と輝く歴史的時間に立ち会っていたのは間違いありません。
 私のジャズの手引をしてくれたのは、1967年5月に晶文社から出版された、植草甚一の「ジャズの前衛と黒人たち」という本でした。しばらくはこの本を脇に抱えてジャズ喫茶を渡り歩いたものです。

 1967年7月17日、銀行の同僚と千葉の館山へ泊りがけで海水浴へ行き、その夜、寝しなにラジオを聞いているとき、突然ジョン・コルトレーンが亡くなったというニュースが流れ、大きな衝撃で思わず飛び起きました。最初に頭をよぎったのは、前年の7月に来日した時の「マイ・フェイヴァリット・シングス」の怒涛のような演奏です。私に青春時代というものがあったとしたら、やはりコルトレーンもその中の大きな部分を占める存在だったのです。彼の死去は、私にとって確実に何かがひとつ終わったことを告げる出来事だったと思います。
 その2ケ月月後に私は新潟へ転勤となり、東京での生活に一旦終止符を打ち、東京のジャズ喫茶巡りも終わることになりました。新潟へ帰った2年後の1969年9月に銀行を辞め、その年の10月に再び上京し、以後私の転変定まらない人生が始まるのでしたが・・・。
 左は、You Tubeのコメントによれば、1961年にドイツのバーデン・バーデンでの演奏で、コルトレーン・クヮルテットと共演のエリック・ドルフィーがアルト・サックスを吹いている姿が見られます。後は、マッコイ・タイナー、レジー・ワークマン、エルヴィン・ジョーンズといういつもの面々です。右は、ご存じ<マイ・フェイバリット・シングス>です。

(追記)H.25.6.19
 残念ながら上記映像は削除されました。そこで、エリック・ドルフィーコルトレーン・クヮルテットの「マイ・フェイバリット・シングス」の映像に代えます。(また削除されないことを祈ります。)