新宿風月堂はブルックナー第9番とグレゴリオ聖歌

 大学生の頃、上京する度に立ち寄ったのが新宿風月堂でした。その後就職して東京にいた1964年4月から1967年9月まで、折に触れ足を向けた記憶があります。大学時代、音楽を通じて仲の良かったA.E君とは、共に東京で就職したこともあって、会うときはいつも風月堂と決まっていました。モーツァルト派のA.E君と、ブラームス党の私とは、互いに贔屓の大作曲家のあれこれについて、学生時代より喧々諤々と議論をしたものでした。
 A.E君と最後に逢ったのは、就職4ケ月後の1964年8月のことでしたが、場所はやはり新宿風月堂でした。繊細で傷つきやすい性格の彼にとって、東京の大きな会社組織の中で競争に打ち勝ち、人間関係の理不尽さなどに耐えて生き抜いていくには、あまりにも人間が優しすぎたのかも知れません。大学時代の友人たちに聞いても誰も消息が分かりません。郷里の北海道へ帰ったのだろうという意見が大半でした。一度北海道へ電話したときに、思いもかけず声を聴くことができたという記憶があります。それも一度きりでした。
 私も銀行という大きな組織で、初めて実社会での様々な矛盾や非情さを痛切に感じていた時期でしたので、自分に引き寄せてみて、彼の気持ちはよく分かるような気がしました。どうやら、私と彼とは同じ種類の人間だったのです。
 当時、新宿風月堂とA.E君と私自身の心象とを重ね併せて書いた詩があります。


    友
    ーE・Aに

「運命なんて ましてや
神の存在なんて・・・信じない」
そむけた友の暗い横顔
明るい通りをかろやかに
大勢の人が歩いて行く
ガラスの向うの光の渦を見つめる僕は
その時「地獄」について考えていた
――昭和三十九年八月の昼下り、新宿風月堂


その友が行方を絶って久しく
僕は毎日の多忙な生活(なりわい)の中で
自分を見失って久しい


ぼんやりしたその時の暗い記憶の底では
ブルックナーのシンフォニーが遠く鳴ってていた
ああ、友よ
その悲惨な面立ちをもう一度見せたまえ
もっと悲惨なこの僕のために
     (詩集「お任せ料理店」)

 そう新宿風月堂といえば、私の記憶の中で先ず頭に浮かぶのは、ブルックナーの「交響曲第9番」であり、それも指揮はフルトヴェングラーに限るのです。
 今は、ブルックナーと言えば、セルジュ・チェリビダッケかギュンター・ヴァントがすぐに頭に浮かびますが、昔は何と言ってもフルトヴェングラーだったのです。
 その頃、クルト・リースの「フルトヴェングラー」という本を読んで、カラヤンに対して反感を抱くようになるのに反比例して、フルトヴェングラーに対する崇敬の念をますます強くしていったのです。でも、風月堂の天井空間の広いホールに響くブルックナーの第9番が青春の第一の思い出というのは、何か悲しいものを感じるのですが・・・。

 また、新宿風月堂では、必ずといっていいほど「グレゴリオ聖歌」が流れていた記憶があります。ブルックナーグレゴリオ聖歌は、私の頭の中で新宿風月堂と分ち難く結びついていました。
 私がまだ大学生の頃、ブラジル大使館に勤務されているL.C.V氏と知りあったのも確かここでした。日本語を流ちょうに話すV氏はまた詩人でもありました。当時の詩の仲間と企画した詩祭の中で、新潟のデパートを借りて詩の展示会を行いましたが、その時に、詩人の木原孝一氏や詩の専門の出版社S社のO社長などのご協力を頂いたほかに、V氏の力添えを得て同氏の作品も紹介し、同氏も新潟までわざわざ来ていただいたことを思い出します。その後、私が就職した後、たまたま新宿風月堂を訪れたときに、ばったりとV氏にお会いしたことも記憶にあります。
 新宿風月堂は1973年に閉店しますが、様々な経緯や懐かしい写真などは、奥原哲志さんの「琥珀色の記憶」(河出書房新社、2002年)に詳しく載っています。
 1973年という年は、私が丁度東京を離れて、九州の某市で新たな仕事を始めた時期でした。まぎれもなく、私の人生の大きな転換点となった年です。
 以下は「グレゴリオ聖歌」のDies irae(ディエス・イレ、怒りの日)ですが、ディエス・イレ自体は第2バチカン公会議カトリック典礼としては、廃止されています。しかし、これは私の好きな曲の一つでもあります。