映画とクラシック音楽

 以下は、2008年に私の勤務先の機関誌に書いたものですが、配布先が限られていたので、あらためて公開します。なにとぞご寛恕を。
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 連続幼女誘拐事件の宮崎勤死刑囚に6月17日死刑が執行されたと聞き、すぐに頭に浮かんだのはフリッツ・ラング監督31年の名作「M」である。連続少女殺人事件を描き、作品の核心部分には現代にも通用する強いアクチュアリティがある。犯人役のピーター・ローレの怪演は心底気味悪く、路上をグリーグの〈ペールギュント〉の一節(第1組曲〈山の魔王の宮殿にて〉より)を口笛で吹きながら、唇と眼をぬめらせ、さりげなく少女の背後に忍び寄る場面では、思わず背筋が寒くなる。この作品にはモデルがある。ドイツで作品の制作と同時期に進行していた「デュッセルドルフの吸血鬼」ことペーター・キュルテン事件である。彼こそは稀代(きだい)のサイコパス(注1)で、幼女を狙った9件の殺人などで有罪となり、31年にギロチンにより処刑されている。(手塚治虫にこれを扱った作品がある。「ペーター・キュルテンの記録講談社手塚治虫漫画全集〈火の山〉)


 映画が製作された31年は、ナチスの擡頭(たいとう)期という言い知れぬ不安感の漂う時代であった。犯人と、彼を並行して追う警察と犯罪組織(マフィア)の一団、捕まえた犯人を民衆裁判にかけ死刑にしろと口々に叫ぶ犯罪組織の集団=群衆のヒステリーぶり、犯行は精神障害のせいであり正式な裁判を受けさせろと憐れみを請う犯人と無罪を声高に主張する弁護士、残忍な少女殺しの犯人がいつの間にか精神障害を持つ哀れな被害者に転位するという巧妙なけれん、まるで今の時代を映す鏡のようだ。国家は精神異常者の犯罪を裁けるのかという問い。そして作品を覆う〈ペールギュント〉の何とも言えない薄気味の悪さ。
 
 ユダヤ系であるラングは、34年にゲッペルスから出頭を命じられると直ちにフランスへ脱出、その後渡米し数々の作品を作った。ドイツ時代の「メトロポリス」(ここにも群衆ヒステリーの場面がある)や「死神の谷」、「怪人マブゼ博士」、渡米後の「暗黒街の弾痕」や「死刑執行人もまた死す」など皆傑作である。彼こそは、「カリガリ博士」のR・ヴィーネ、「吸血鬼ノスフェラトゥ」のF・W・ムルナウと並ぶドイツ表現主義の巨匠であった。

クラシック音楽と作品とが切り離せない関係にある映画として、ヒッチコック42年の傑作「疑惑の影」を観る。ここではレハールオペレッタ〈メリー・ウィドー〉の〈ワルツ〉がドラマの核心部分を担っている。(プラシド・ドミンゴアンナ・ネトレプコという豪華デュエットです。)

 ディミトリ・ティオムキンのオリジナル曲の間を縫って随所に挿入されるこの〈ワルツ〉は、曲調の仄(ほの)明るさが、かえって言い知れぬ不安感を醸(かも)し出す。この曲名は実は犯人の犯行の内容をも暗示している。ウィドー(未亡人)を狙った犯罪。脚本に力を感じるのは、ピュリッツァー賞受賞のアメリカ演劇界の巨人ソーントン・ワイルダーが加わっているためか。この作品はヒッチコックの後年に見られるケレン味はないが、二人のチャーリー、つまり主人公役のテレサ・ライト(アカデミー助演女優賞俳優)と異常な犯罪者を演じる叔父役のジョセフ・コットンの間の心理的な葛藤が緊張感を高め、平凡な日常の家庭生活に忍び寄る(非日常性の)恐怖を見事に描き出している。ジョージア医科大学精神科医であったクレックリーの定義を用いれば、この叔父は表面的な魅力と平均以上の知能という点で典型的なサイコパスである。(注2)一見快活で紳士的に振る舞うかに見える彼の異常性を、(警察を除けば)可憐なテレサ・ライト演ずる姪以外は誰も気づかないというのも恐ろしい。われわれの隣で殺人者が何食わぬ顔で暮らしているという恐怖は、今の日本の社会に通じる強いリアリティがある。
 この作品の形式分析をしたフランソワ・トリュフォーは「無意識とはとても思えないアイデンティティのテーマは2という数字のオブセッションと論理的に対応しているはずだ」(注3)と言う。スラヴォイ・ジジェクの本(注4)ではこれをラカン派学者らしく「この映画は双数的関係、・・鏡に映ったような二重化を主題としてもっている」と説明し、「二重化は二人のチャーリーという軸をめぐって機能する。名前が同じことはもちろんとして、二人は鏡に写ったような提示の仕方によっても結びつけられている」と敷衍する。

 〈メリー・ウィドー〉と言えば、「ベニスに死す」(ルキノ・ヴィスコンティ)の冒頭、アッシェンバッハが到着したホテルのホールで〈ワルツ〉と〈ヴィリヤの歌〉が演奏される場面があるが、しかしこの映画では、何と言っても甘美な滅びの世界へ誘う蠱惑的な旋律はマーラー交響曲第5番のアダージェットだ。午後の陽光に煌(きら)めくアドリア海に立つ美少年タジオの優美なシルエットを見つめつつ、砂浜で一人死の淵へ沈んで行くアッシェンバッハ、映像と音楽のこの世のものとは思えない世紀末的な美しさ。さすがジャン・ルノワールの弟子の作品である。(演奏は、ノイマンチェコ・フィルです。)

 映画とクラシック音楽とのインタープレイ、いよいよわが愛する天才スタンリー・キューブリックの言わずと知れた「2001年宇宙の旅」の登場である。華々しいのは冒頭と掉尾を飾るご存知リヒャルト・シュトラウスの〈ツァラトゥストラかく語りき〉のファンファーレである。モノリス(地球外知的生命体の創造物)の場面で流されるハンガリーの現代作曲家ジェルジ・リゲティの〈レクイエム〉なども印象深い。そして何といっても壮大なのは、宇宙ステーションが遊弋する場面で響き渡るヨハン・シュトラウス2世の〈美しき青きドナウ〉である。この場面でこの曲を選んだという目の付け所は凄い。

この作品で異常な存在は、SFらしく史上最高の人工知能ハル9000型コンピューターである。ハルは乗組員にその異常を疑われ思考部を停止させるべく話し合われるが、それを事前に察知して乗組員を次々と殺害していく。しかし一人生き残ったボーマン船長がハルの狂った脳の高等中枢を切断する。このハルは紛(まぎ)れもなく史上初のITマシンのサイコパスである。ジェームズ.キャメロンの出世作ターミネーター」で未来から殺人サイボーグ・ターミネーターを送り込む軍事用コンピューター〈スカイネット〉はハルの後継者であろう。

 なお共同で企画・制作・脚本に携わったSF界の巨匠アーサー・C・クラークは今年3月19日に90歳で他界した。映画製作に至る経緯については小説「2001年宇宙の旅−決定版」のクラーク自身の《スタンリーに》という献辞を付した〈新版序文〉に詳しい。
 考えは色々とあるもので、「この作品はキューブリックの選んだ音楽のせいで台無しになっている」と言ったのは映画音楽作曲家のジェリー・ゴールドスミスだ。「猿の惑星」「エイリアン」などの音楽を作曲した彼は、当初この映画に曲を付けたアレックス・ノースのオリジナル曲を使っていたら、「映画のクォリティはさらに向上していた」と述べている。

 スチーブン・キングの原作をスタンリー・キューブリックが製作・監督した「シャイニング」(キングはこの映画が気に入らなかった)で、物語の顛末を暗示しておどろおどろしいのは、主人公ジャックが車でロッキー山頂のホテルへ向かう劈頭の場面で、グレン・グールドにも絶賛されたという名手ウェンディ・カーロスによるシンセサイザーで演奏されるグレゴリオ聖歌〈ディエス・イレ(怒りの日)〉である。(なお、60年代の第2バチカン公会議カトリック典礼としてのディエス・イレは廃止された)

 また、ジャックが次第に狂気に蝕まれて行く場面で延々と流れるバルトークの〈弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽、第3楽章〉も観る者の神経に食い入ってくる。ジャックは憑依体質のアル中親父という役どころで、物語は彼の妄想が引き起こしたDV事件と言っていい。
 これは、バルトークに師事したことのある、フェレンツ・フリッチャイの指揮によるものである。

 ディエス・イレ(怒りの日)を主題にした曲は多い。例えば、リストの「死の舞踏」やベルリオーズの「幻想交響曲」の〈ワルプルギスの夜の夢〉、それにラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」など。(以下は、ツィメルマンのピアノと小沢征爾の指揮による「死の舞踏」の演奏です。)

 サイコパスを人間ではなく組織>(この場合、グローバルな大企業)に当て嵌めて精神分析にかけたのは、ジョエル・ベイカン原作のドキュメンタリー映画「ザ・コーポレーション」だが、クレックリーやロバート・ヘア(注5)の定義に基づいて今の日本でサイコパスな組織を考えると、無責任で自己中心で嘘つき、無反省で冷淡な多くの巨大企業と官僚機構、いくつかの労働組合に行き着く。

 彼らは金儲けと既得権の確保、支配権(ヘゲモニー)の強化のみを金科玉条とする。人類に唯一残された資本主義という経済システムは、ひたすら社会のアノミー化を加速させ、人を堕落に導いて行くかのように見える。霞が関から次々飛び出す法令・法令の改変・規制強化・規制緩和などの施策は、策略(マヌーヴァー)に長けた行政官僚が企図する新しい「囲い込み(エンクロージュア)」の手段なのだろうか。社会の仕組みは一層複雑系化し、過剰な情報が昼夜を問わず飛び交う。資本主義的利潤の源泉である諸々の差異は極小化し、真っ当な企業ほど経営が困難になる。官僚は自らの生存圏を防御すべく詐術を尽くし、グローバルな投機マネーが内外で跳梁跋扈する。こうした状況下においては、官であれ民であれ、もともと道徳心など無い多くの法人組織にも(法人も一種の人=生物として)強い自己保存本能が働くので、彼らの考えや行いが際限もなく犯罪的>となるのは生物学的必然である。










(注1)サイコパス(ソシオパス)はDSM−3R以降はAPDなどに統一・変更され、もはや学術用語ではないが、言葉としては極めて喚起力があり、未だ有効性は失っていない。
(注2)“The Mask of Sanity . 5th . ed.”, by Hervey. M. Cleckley 初版は1941年
(注3)『シネアスト1/ヒッチコック』「合鍵の束」F・トリュフォー青土社、36頁
(注4)『ヒッチコックによるラカンスラヴォイ・ジジェク監修、トレヴィル社、122頁
(注5)『診断名サイコパス』ロバート・ヘア(カナダの心理学者)、ハヤカワ文庫NF
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