人間は深い淵だーアルバン・ベルク<ヴォツェック>より

Der Mensch ist ein Abgrund,es schwindelt
Einem,wenn man hinunterschaut....
mich schwindelt...
 人間は深い淵だ、目がまわる
 その奥底を覗くと
 目がまわる
(<ヴォツェック>第2幕第3場)
 これはヴォツェックがマリーと口論の果てに絶望に陥り、己の来し方の体験の全てを賭けて魂の根源から絞り出した彼の究極の人間観を示した独白です。ヴォツェックはマリーと鼓手長との関係に疑惑を抱き、絶望しつつマリーを問い詰めますが、マリーはそれに答えず、執拗に迫るヴォツェックの手から逃げ去ります。その後にこの独白が続きます。ここは、ヴォツェックが人間の本性の計り知れない冷酷さと不条理さに怖気をふるう、このオペラの重要な場面のひとつとなっています。
 ゲオルグビューヒナーの断章劇を原作とするアルバン・ベルクのオペラ<ヴォツェック>は、20世紀で最も革新的で、しかも現代オペラ史のターニング・ポイトとなった天才作曲家の手になる不朽の名作です。
 この作品は、18世紀から19世紀にかけてオペラ界を席巻したベルカント・オペラやグランド・オペラ、あるいは英雄たちの登場するワグナーの楽劇などとは全く別次元の、実際に起こった市井の一犯罪者の殺人事件を題材とし、人間を取り巻く不条理なな社会状況やそこで織りなされる赤裸々な人間感情ー貧困、傲慢、冷酷、権力への従属、屈辱、好色、嫉妬、恐怖、絶望、殺人、自殺ーを主題に、これまで見ることもなかった極めて人間臭い劇であるのは周知のとおりです。
 23歳4ケ月で夭折したビューヒナーの、いわゆる断章劇<ヴォツェック>は、一見、(内縁の)妻を寝とられ嫉妬に狂い絶望した男が、その妻を殺害するという単純な情痴殺人に過ぎないように見えますが、それにしてはビューヒナーの劇は異様な状況と、違和感に満ちた背徳的な登場人物たちと異様な緊張感と絶望感に満ちています。

 左は岩波文庫から2006年に出版されたこの作品の岩淵達治氏による優れた翻訳本です。他に<レンツ>、<ダントンの死>と、委曲を尽くした解説と訳注を併せ、彗星のごとく時代を駆け抜けていった見者の風貌を帯びたこの作家の全貌に光を当てたもので、最近の岩波文庫の中では画期的な一点と言えます。
 この劇(オペラ)の底流にあるテーマは、実はこの時代の救われることのない下層民(いわゆる第四階級)の貧困です。マリーの密通も貧困に対する絶望が重要な引き金になっています。これは、今の日本の状況と重なっていると見るのは私の思いすごしでしょうか。貧乏ほど人の心を深く蝕み、人に深い絶望感を抱かせ、静かな狂気へと追いつめて行くものは他にありません。現在の日本でも国民の中に相当の数の貧困層が形成されようとしています。社会が二極化に向かって歩んでいることがいつか深刻かつ絶望的な社会不安の大きな原因になるような気がしてなりません。狡猾な官僚機構のコントロールの下、国民からの収奪機構と化している今の日本国家の愚かな政治家たちの右往左往する情けない姿からは、未来に見えるのは国民が陥る蟻地獄のような悲惨な状況だけです。
 ベルクのオペラのタイトルは"Wozzeck"<ヴォツェック>ですが、実はこのオペラの原作者であるゲオルグビューヒナーの主人公も、ビューヒナーがこの劇を書くもとになった歴史上の事件の犯罪者の名前も"Woyzeck"<ヴォイツェク>です。
 ベルクは当初、ビューヒナーの最初の著作集を刊行したカール・エミール・フランツォース版(1879年出版)をもとにこのオペラの台本を書いたと思われていました。フランツォースは、ビューヒナーの死後、判読不能の状態にあった原稿群を遺族から譲り受け、特殊な化学処理をしてようやくこの作品の復元をしたの功労者です。ただ、この版では判読困難な自筆草稿からタイトルを誤読し、"Wozzeck"となってしまったのです。その後の各版もこれを踏襲し、タイトルを"Woyzeck"と訂正したのは1920年のヴィトコフスキー版まで待たなければなりませんでした。
 ベルクが実際底本としたのは、新たな場面配列を行ったパウルランダウの著作全集をもとにした1913年のライプツィヒのインゼル社の単行本「ヴォツエックーレンツ、2編の断章」であったと言われています。(この本の現物は、現在オーストリア国立図書館に保管されているそうです。)
 ビューヒナーの作品の版の校異は、自筆草稿が未定稿で断章の配列も未整理のままであったため、調べるほどに、これはこれで大変面白いのですが、煩雑になるのでこの辺でやめます。
 1821年にライプツィヒで起きたヴォイツェク事件の裁判記録は消失し、残されたのはザクセン王室宮廷顧問官ヨハン・クリスティアン・アウグスト・クラールス博士の数種の精神鑑定書とそれに対する反論のみです。ビューヒナーもこれを知って、作劇に利用したものと思われます。
 この事件では当時殺人に対する責任能力をめぐって司法鑑定が何回も行われています。裁判所は精神鑑定医に命じたクラールス博士の精神鑑定診断書に基づき、被告の責任能力を認める第1次決定を下しました。その後、被告が時々常軌を逸した行動をとるという目撃証言に基づき、裁判所の命令で再度クラールス博士が詳細な精神鑑定を行い(2次鑑定)、精神錯乱を推定できるだけの新たな根拠はないということで、やはり責任能力は認められるという結論を出しています。
 そして、1824年8月27日にライプツィヒ市役所前広場でヴォイツェクの処刑が行われました。
 なお、当時の医学界でもヴォイツェクの責任能力をめぐっては、クラールスの鑑定書に反対し責任能力は認められないとする批判的見解もあって波紋が生じ、さまざな論争が繰り広げられています。
 精神鑑定をめぐっては、現代に至って事態はむしろ複雑化・混乱化に拍車がかかっており、鑑定のための制度やツールが乱立し、それぞれの拠って立つ立場によって見解が鋭く対立するケースが多く見られます。(例えば、ICDやDSMによる病気分類の仕方、診断基準の相違、巨大製薬会社の思惑などに影響されています。)
 劇作家であり、生理学・解剖学を専攻した医師でもあったビューヒナーがこの事件に関心を持ったであろうことは容易に推察されます。彼がクラールス鑑定書で欠落していた社会的な要因<人が最下層民として貧困に蝕まれ、社会から疎外されているという状況と犯罪との因果関係>に目を向けた結果この作品が生み出されたのかも知れません。何しろビューヒナーは、ドイツ革命思想の嚆矢ともなった「あばら屋に平和を!宮殿に戦争を!」のスローガンで有名な政治的パンフレット『ヘッセンの急使』の起草者として、大学時代から強い人権思想の洗礼を受けていたのですから。
 医師としての側面は、短編小説<レンツ>で、主人公の作家レンツの狂気(今で言う”統合失調症”か?)が深化していく過程を、第一次資料を駆使して詩的で幻想的な文章で、しかも克明に描き出している点によく表れています。
 また、登場人物の医者がヴォイツェクに向かって、
”ヴォイツェク、お前は精神錯乱だ。”
”ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱だ。”
と言うセリフがありますが、岩波文庫の岩淵達治氏の解説によれば、ドイツ文学史上このような医学術語が使用された最初の例だそうです。
 もしかしたらビューヒナーは、ヴォイツェクに責任能力ありとするクラールス博士の鑑定書に疑問を持ったのかもしれません。この作品の随所にヴォイツェクが被害妄想的な幻視、幻聴に襲われるシーンが出てきます。ビュヒナーはヴォイツェクが責任能力に疑問符の付く精神異常であることをほのめかそうとしたのではないでしょうか。

 オペラ<ヴォツェック>は、1951年のディミトリ・ミトロプーロスニューヨーク・フィル演奏会での録音(左上)が、1961年にコロンビアからLPで発売され、当時私も早速買い求めています。これをいまだに大切に保管しており、時折レコード盤に針を落として聴いています。ヴォツェックがマック・ハーレル、マリーがアイリーン・ファーレルで、モノラルですが現在でも良質な音で再現できます。(左上がそのレコードのジャケットです。)当時レコード化されたのはこの演奏が最初で画期的と言われ、いまだに十分鑑賞に堪えます。
 この頃(1961年代)、ベルクのレコードをいくつか買い求めています。よく分からないまでも、どこか魅かれるものがあったのでしょう。
 一つは、クリスチャン・フェラスのヴァイオリン、ジョルジュ・プレートル指揮のパリ音楽院管弦楽団の演奏による<ヴァイオリン協奏曲>と、これにピエール・バルビゼ(p)が加わっての<ピアノとヴァイオリンのための室内協奏曲>(東芝)です。二つ目はハンス・ロスバウト指揮の南西ドイツ放送交響楽団の演奏によるベルクの作品6の<管弦楽のための3つの小品>のほか、ウェーベルンストラヴィンスキーの曲も含んだウェストミンスターのレコードです。勿論今も手元にあります。
 <ヴォツェック>で現在愛聴しているのは、1965年にピエール・ブーレーズパリ・オペラ座管弦楽団を指揮し、ヴォツェックワルター・ベリー、マリーをイザベル・シュトラウスが演じたCD(右上)ですが、まだ40代初めのブーレーズが指揮するオーケストラが霊感に富む大胆で極めてテンションの高い演奏を展開していて、聴くほどに引き込まれる魅力を持っています。(右上)
 ビューヒナーでは25の断章であったものを、ベルクはこれを一部省略し、3幕で各5場面の型15場面に構成しています。その15の場面が、それぞれ絶対音楽の形式に従っているのです。例えば、第1幕第4場は”パッサカリア”で主題・変奏・コーダで構成され、また第2幕第1場は”ソナタ形式”により、提示部・展開部・再現部という構成になっています。
 これについては、ベルク自身が「ここの場面の小形式における完結性のみならず、各幕、ひいては作品全体の統一性も達成されねばなりません。周知のごとく数多くのばらばらで断片的な場面からなり立っているビューヒナーの<ヴォ(イ)ツェック>のような作品ではそれは全く不可能なことでした。」として、「私はこれを5場ずつ3つの幕にまとめ、すなわち呈示、急転(ペリペティ)、破局(カスタトロフ)の3部にはっきりと区分しました。」と述べています。ベルクはその結果の評価もいろいろ行っているのですが、詳細にわたるのでこれで打ち止めにします。(アルバン・ベルク「<ヴォツェック>のための講演」(1929)名作オペラ ブックス229〜230頁、音楽之友社
 <ヴォツェック>の舞台をyou tubeで少し覗いてみます。
 左下は、ブルーノ・マデルナ指揮、ハンブルク国立歌劇場での演奏(DVD化されたもの)で第2幕第3場、冒頭の「人間は深い淵だ」の場面。ヴォツェックがトニ・ブランケンハイム、マリーがセーナ・ユリナッチです。
平成26年8月24日)
ブルーノ・マデルナの演奏は、全曲を通したものがアップされ、部分的な場面の映像は亡くなりました。ここに全曲版を載せます。
 右下は、クラウディオ・アバドウィーン・フィルによる第3幕第2場と第3場で、第2場はマリー殺害の場面です。ヴォツェックはフランツ・グラントヘーバーで、マリーはヒルデガルト・ベーレンス。CDと同じ1987年の舞台です。このアバドの演奏も評価の高い演奏です。(途中、ちょっと音が途切れるところがあります、ご辛抱を。)
dai3ba
 そして最後、第3幕の第5場では、みなし児となったヴォツェックとマリーのの子供が、ほかの子供に”君の母ちゃんは死んだよ”といわれても、知ってか知らずか、木馬に乗って、無邪気に”はいどう、はいどう”と楽しそうに遊んでいる姿が胸を引き裂くような哀しみを誘います。
(この映像は、ブルーノ・マデルナの上記全曲版に含まれました。。)