バルトークあれこれ(1)民俗音楽研究家としてのバルトーク

 
伊東信宏氏の著書『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』は、<はじめに>にあるとおり、
「作曲家バルトークの伝記ではない。・・・ここで目指しているのは、バルトークという音楽家の六十四年にわたる生涯を、民俗音楽の研究活動という側面から見直すことである。」
という前例の尠ない、しかも難しい視点からの重要な作業の成果といえます。
 伊東氏のこの著書を読み進むにつれ感嘆したのは、先ずはその達意の文章です。民俗音楽についての極めて専門的な分野の説明が私のような素人にも理解可能な明晰な文章(その背後には論理的で明晰な頭脳)で記述されています。
 次に感じたのは記述のバックボーンとなっている歴史的なパースペクティブの確かさです。オ−ストリア=ハンガリー帝国の解体から第一次世界大戦、そしてナチスの勃興という十九世紀から二十世紀にかけての激動の時代の政治的、そしてそれに翻弄されてきた文化的な背景を十二分に読みこんで、バルトークの民謡収集家としての生涯を描き切っていると思います。
 さて伊東氏は、英語のFolkに相当する日本語として“民俗”を当てはめていますから、バルトークの民謡収集とは、伊東氏の言う“民俗音楽”の収集のことです。
 では、このようなコンテクストの中における“民俗”とは一体どのような意味なのでしょうか。また、どのような歴史的制約が課せられているのでしょうか。それについては、第一章の冒頭に引用されているアーノルド・シェーンベルクの文章がヒントを与えてくれます。これはこの本の論述全体を貫く通奏低音のような大切な文章なので、煩を厭わず以下に記してみます。
第一次世界大戦後の平和のおかげで、多くの国々が政治的独立を果たしたが、その中には文化的にはまだ独立の機が熟していない国々も含まれていた。にもかかわらず、人口600万〜1000万人程度の小国も、文化的単位ないし国家と見なされることを願い、その国の特色が応用美術、織物、陶芸、絵画、歌、演劇、さらには作曲といった多くの点で表現されねばならないという考えに取り憑かれている。もちろん、Xという町では、そこから3000フィート隔たったYという町とはかなり異なる個性的習慣が育っているとはいえるかもしれない。しかしその両方の町がひろく認められることを求め、『陽のあたる場所』を得ようとして自分たちの特産品を高く売りつけるチャンスを窺っている、というのが現状だ。彼らのもっともらしい理想の背後に見え隠れする本心とは、このような経済的な損得勘定なのである。」A・シェーンベルク『民謡に基づく交響曲
 ここには、1874年に、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれたシェーンベルクの文化的矜持が強く表れていて、やや辟易しますが、伊東氏は現在のわれわれが当たり前のものとして教え込まれてきた「文化的相対主義」の原則から見ると、「文化的に成熟しているかいないか」という価値判断はタブーであり、シェーンベルクのこの表現はそのタブー侵犯であるとしています。(「文化的相対主義」とは、最大公約数的に言えば、“全ての文化に優劣はなく、平等に尊ばれるべきとする態度”のこと。)
 それはさておき、シェーンベルクのいう人口600万〜1000万の国とは、具体的には多分オーストリア=ハンガリー帝国の周縁国家、すなわちチェコスロヴァキアボヘミア、スロヴァキア)、帝国解体後のハンガリーハンガリーから分離したルーマニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナセルビア、それに北欧の3カ国などを指すものと思われます。(ハンガリーは帝国解体後は分断され、周縁国家の一つとなってしまったのです。)
 すなわち民俗音楽とはこれら(政治的にも、文化的にも)周縁国の民俗特有の音楽のことを言うのでしょう。バッハ、ベートーヴェンモーツァルトシューベルトなどを生み出したドイツ・オーストリアの音楽が、民俗的な視点で語られることはありません。シェーンベルクの発言には、まるでウィーンの皇帝が周縁国を睨め付けるような傲岸不遜さが感じられます。シェーンベルクがもしこれらの国々を十把一絡げに裁断しているだとすれば、「文化的相対主義」を持ち出すまでもなく、単に雑駁過ぎるのでなければ、為にする議論と言わざるを得ません。

 シェーンベルクのこの言葉は、彼の”Style and idea : Selected writings of Arnold Schoenberg”という書物(英訳)のPART3 FOLK-MUSIC AND NATIONALISMの中の”FOLKLORISTIC SYMPHONIES”の冒頭にあります。
なおこの書物は、下記のとおり<Googleブックス>で読むことができます。
FOLKLORISTIC SYMPHONIES
 そのシェーンベルク第二次世界大戦中に、ナチスユダヤ人迫害の手を逃れてアメリカに移住しています。因果は巡るとでも言えるかも知れません。
 さて、バルトークが生まれたのは、シェーンベルクから文化的周縁国扱いされた今はルーマニア領のナジュセントミクローシュです。今であれば、バルトークルーマニア人作曲家と呼ばれることでしょう。
 それにも関わらず(伊東氏によれば)バルトークは、ルーマニア人の音楽についての王立音楽院院長のフバーイとの論争で、ルーマニアに対するハンガリーの文化的優越性について差別的言辞を弄しているのです。こうなれば目糞鼻糞を嗤(わら)うのたぐいで、人間の救いようのない本質を垣間見る思いがして暗澹とせざるを得ません。
 伊東氏の本から、その部分を引用してみます。
「・・・そしてこの論文*は、このようなルーマニア民俗音楽を組織的に研究しようとする者が一人も現れなかったのに対し、ハンガリー人の方が、このハンガリーの観点からも極めて重要な研究を企てねばならなかったことを示している。これこそわれわれの文化的優越性の証しではないのか。」
(*バルトークの「フニャド県のルーマニア人による音楽的方言」とういう1914年発表のハンガリー語の論文。論争になったのはその独訳)
 かつて、日本人は白人から黄色人種として(特に米国人からは”ジャップ”と言われて)侮蔑されながらも、朝鮮半島出身者(「チョーセン」と呼んだ)や被差別部落出身者(「穢多」とか「四つ」と呼んだ)を差別してきた事実があります。私たち人間は差別という食物連鎖の輪のどこかに常に位置付けられている悲しい生き物なのかも知れません。
 また、国家間であれ、民族間であれ、人種間であれ、宗教間であれ、人間社会における差別の構造(あるいは少なくとも他者への侮蔑的感情や意識)がこれからも無くなることは考えられず、われわれ人類の痼疾として、人間文明社会で継起する不条理としか思えない一連の憎悪の連鎖の源泉となり、またその社会を構成している人々の意識の中に澱(おり)のように沈潜し、癕(よう)さながらに根を張っていることを痛感せざるをえません。
 ここでは触れませんが、宗教的人種的差別としては、今でも根強く残る「ユダヤ人」差別があります。この場合の宗教とは主にローマ・カソリックですが、ルター派にもユダヤ人差別があることは、以前言及したとおりです。反面、ユダヤ教にも強い選民意識があるのも事実です。
 では、バルトークの民俗音楽収集の成果から、自らピアノ演奏で<ルーマニア民俗舞曲>(左下)と独唱付きの<5つのハンガリー民謡>(右下)の一部を聴いてみます。