独断と偏見で選ぶこの世で最も心に響く名曲10選(その10)<妙なる静謐:バッハの「音楽の捧げもの」より”6声のリチェルカーレ”>

 
 今月(7月)ライプツィヒへ語学留学に行った娘より、メールで左の写真が送られてきました。ご存知のとおり、ライプツィヒはバッハゆかりの地で、彼は1723年から1750年の逝去までライプツィヒに在住し、トーマス・カントルの地位にありました。その職務として聖トーマス教会(他にもニコライ教会などもあります)の礼拝の音楽を担当していましたが、この写真は、その聖トーマス教会のバッハ像を裏から撮ったという妙な写真です。
 幼い頃よりピアノに親しんできた娘にとって、ライプツィヒはバッハの聖地であるうえ旧東ドイツのため物価も手頃で、遊学するには格好の都市です。ベルリンやドレスデンへも列車で1時間ほどの距離です。かく言う私も、9月末頃、娘に会いがてら、ライプツィヒや他の都市を訪れる計画をしています。
 バッハは、ライプツィヒ時代に教会カンタータを演奏するために多くのカンタータを作曲しましたし、マタイ受難曲ヨハネ受難曲などの宗教音楽の傑作も生まれています。
 バッハ晩年の器楽曲の傑作「平均律クラフィーア曲集第二巻」「ゴールドベルク変奏曲」「音楽の捧げもの」や「フーガの技法」もやはりライプツィヒ時代の作品です。これらの傑作は、聴く者をして、崇高にして妙なる静謐の宇宙へと導いていってくれます。(”妙なる静謐”は「能」の舞台が作り出す世界をあらわす言葉そのものですが・・・。)


 さて、今回とりあげる「音楽の捧げもの」は、バッハの次男のカール・フィリップ・エマヌエルが王室楽団員として仕えていたプロイセンのフリードリヒ大王(二世)に献呈された曲で、大王に与えられたテーマをもとに作られています。
 
 今まで主に親しんできた演奏はアーノンクールのもので、チェンバロをヘルベルト・タヘッツイが弾いています。さすがにアーノンクールらしい古楽アヴァンギャルド(論理矛盾?)としての面目躍如といった演奏で、アーノンクール独特のエネルギー感と緊張感と求心力が感じられ、ずっと愛聴してきました。
 ただ、後で述べるレオンハルト盤やクイケン盤に比べると若干の息苦しさが感じられるような気がします。リヒター盤ではその息苦しさはさらに増幅します。
 リヒター盤は、リヒターのバッハへの情熱と生来の厳格さにコントロールされた、究極まで突き詰められた名演だと思います。オーレル・ニコレのフルートが素晴らしいのですが、この演奏を聴いていて思い浮かぶのは、バッハではなくリヒターの貌です。これはリヒターの「音楽の捧げもの」なのでしょう。

 1974年に録音されたレオンハルトクイケン兄弟との演奏は、演奏者がみな青年期・壮年期で、まことに充実したアンサンブルが成立しています。レオンハルトが40歳代半ば、バルトルド・クイケンが弱冠25歳で、長兄のヴィーラントでさえ30歳代半ばという若さですです。伸びやかな、しかも力のこもった演奏で、聴く者を魅了してやみません。レオンハルトの<6声のリチェルカーレ>はこの演奏のまさに白眉で、格調が高く、彼の積年のバッハに対する造詣の深さが発揮された名演だと思います。
 レオンハルトは、昨年5月7日に、第一生命ホールでチェンバロ演奏会を聴きました。ルイ・クープランJ.S.バッハやデュフリなどの曲を、典雅としか言いようのない美しい響きで聴くことができて、本当に幸せでした。考えたら、彼はもう80歳を超えていたのですね。かねてより、レオンハルトのバッハの「マタイ受難曲」や「ロ短調ミサ曲」のCDを座右の名盤として愛聴してきたので、感慨もひとしおでした。(おまけに、昨年はレオンハルトのマタイでエヴァンゲリスト役だったプレガルディエンの「冬の旅」も聴くことが出来た幸せな年でした。)
 レオンハルトは、クイケン兄弟との演奏では、後期フレミッシュ様式の18世紀アントワープで制作されたヨハネス.D.ドゥルケンのチェンバロを使用していましたが、日本での演奏会では、ウェブサイトでの解説によれば、ブルース・ケネディ制作のジャーマン2段チェンバロのミートゥケモデルを使用しています。

 クイケン兄弟が1994年2月に録音した「音楽の捧げもの」は、レオンハルトという大物がいないせいか、それとも兄弟の音楽家としての成長のせいか、また3人が以心伝心通い合うものが多いためか、実に自然で自在な、それでいてバッハの本質をを根っこの部分できちんとに押えた、見事な演奏を展開しています。まず聴いていて疲れません。ある種の人間的な思い入れのような夾雑物は全くなく、考え抜かれた抽象度の高い演奏ではないでしょうか。バルトルドのフラウト・トラヴェルソの演奏も以前より格段に精彩が感じられます。勿論年代の新しいせいで、録音も大変優れています。
 なお、チェンバロを担当したロベルト・コーエンも、ドゥルケンを使用しています。
 クイケンは、第2のヴァイオリンを追加するのは楽譜の誤読のせいであり、実際は不要であるとし、チェンバロフラウト・トラヴェルソバロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ各一つという最小の楽器構成で演奏をしていますが、それが却って演奏の音楽宇宙に膨らみを持たせる効果があったと思います。
 また、<6声のリチェルカーレ>はチェンバロ独奏ではなく、ライナー・ノーツのバルトルド・クイケンの説明によれば、カノンと同じ楽器編成の規則を用いたとして、旋律楽器がそれぞれ1声部を受け持ち、その他の3声部をチェンバロが演奏しています。最初やや面喰らいましたが、慣れのせいか、今ではむしろこのスタイルの方がこの曲の本来持っている玄妙なわざが十分堪能できるような気がします。今はこの演奏を聴く機会が最も多くなっています。

 ところで、射殺という悲劇的最後を遂げた3人の大音楽家の一人であるアントン・ウェーベルンの編曲した <6声のリチェルカーレ>は、原曲は無論のこと編曲も傑作の名に恥じない精緻で計算し尽くされた見事な出来栄えですが、私は、クラウディオ・アバドウィーン・フィルと演奏したものを好んで聴いています。アバドは、ベルリン・フィルの常任指揮者となってやや男を下げた感じでしたが、今でも私は、彼をオールアラウンドな大指揮者の一人であると確信を持って評価しています。古典的なフーガ(リチェルカーレ)とウェーベルンの前衛的な手法が見事に融合した新しい世界を、アバドはバランス感覚に富んだ指揮ぶりで、音色豊かに流麗に、そして信じられないほどの美しさで創り出しています。
 このCDに入っているシェーンベルクの傑作「ワルシャワの生き残り」も実に明晰で劇的な仕上がりとなっていて、この曲の名演に数えられます。語り手のゴットフリート・ホーニクも緊張感溢れる迫真の出来です。
 なお、ニコニコ動画ウェーベルン編曲の<6声のリチェルカーレ>を、クリストフ・ドホナーニが指揮したのものが見つかりました。
【ニコニコ動画】バッハ:「音楽の捧げもの」〜6声のリチェルカーレ ヴェーベルン編曲版

追記2012年11月21日 
 さらに、2012年1月7日に、第1回の演奏会を行った"PRIEM WIND ENSEMBLE"の曲目の中にこの曲があり、you tubeにアップされましたので、これも効いてみます。

 なお、射殺された3大音楽家とは、米占領軍の兵士に誤殺されたウェーベルンを筆頭に、狂人のマーク・チャップマンに射殺されたビートルズジョン・レノンと、NYのジャズ・クラブ”スラッグス”での演奏ステージの合間に愛人のヘレンに射殺されたジャズ・トランペッターのリー・モーガンの3人のことを指しています。(彼らと比べるとやや軽量ですが、精神異常者のネイサン・ゲールに射殺された元パンテラダイムバッグ・ダレルを入れると4人になります。)
 これは、レオンハルトチェンバロ演奏による<6声のリチェルカーレ>です。(映像の2曲目)
 まことに神韻縹渺として、神なき時代に生きる私たちの心を、神のしろしめす静謐な世界へ導いてくれるかのような稀有な演奏です。

2012年11月21日
 上記のレオンハルトの演奏が削除されましたので、タチャナ・ニコライエワのピアノ演奏に変えます。レオンハルトに劣らないまさしく巨匠の演奏だと思います。