ライプツィヒだより、その1(遊学中の娘より)、そして<バッハにおける反ユダヤ主義とは>


 ライプツィヒにいる娘から、メールに添付して左記の写真が送られてきました。バッハがトーマス・カントルとして礼拝音楽を担当していた<ニコライ教会>のパイプオルガンの写真で、娘がそこで行われたオルガン・コンサート(チケット代は、2ユーロだったとのこと)に行ったときに、座席から撮影したものだそうです。
 ニコライ教会といえば、むろん東独崩壊の引き金ともなった月曜集会で有名ですが、この教会がロマネスク様式で建てられたのは遠く1165年のことで、その後16世紀と18世紀の2度の大きな改装(改装当時の建築様式であるゴシックあるいはバロック様式に)や、その後の改造を経て現在の等高式と呼ばれる様式の教会の姿になったとのことです。いずれこの地を訪れた時(今年の9月末の予定)によく見てみたいと思っています。
 ここのパイプオルガンはザクセン州最大(5つの手鍵盤と足鍵盤、103ストップ)とのことですが、制作年度は比較的新しいもののようです。
 ニコライ教会は、1724年4月7日に<ヨハネ受難曲>が初演されたことで知られています。もともとバッハは、この作品をトーマス教会で演奏する予定だったのですが、直前に市議会からの命令でニコライ教会に変更になった経緯があります。

 ここで、バッハがライプツィヒ時代に作曲したオルガン自由曲(コラールのオルガン編曲でないもの)の傑作<プレリュードとフーガ ハ長調BWV547>を、ヘルムート・ヴァルヒャの演奏で聴いてみたいと思います。

 ところで、当時のライプツィヒは、1439年にザクセン領内からのユダヤ人追放令が出され、もともと反ユダヤ感情の強い地域でした。ここは、いわゆるルター派正統主義の牙城だったのです。(その後正統主義に対抗して、敬虔主義やメソジスト運動などが興っています。バッハはもちろん正統主義です。)
 従来より、<ヨハネ受難曲>はイエス殺しの罪をユダヤ人に押しつけて「反ユダヤ主義」を煽ってきたとの論議がなされてきています。バッハの生まれたアイゼナッハは、ルターと極めて関係の深い町で、町楽師としての彼の父のもとで育ったバッハは、父の重要な仕事の一つであるコラールの演奏を子守唄にして育ったに違いありません。そのルターが深刻な反ユダヤ主義者であったという疑惑は、バッハその人の作品における反ユダヤの徴候を読み取ろうとする傾向に根拠を与えることになっています。。
 7月のキリスト教新聞その他に、オランダのユダヤ神学者のルネ・シュス氏が、マルティン・ルターの教義の核心である信仰義認は<反ユダヤ>に結び付くとして公式修正が必要だ、と問題提起している、という記事が出ています。
 その裏付けともなるであろう1543年にルターが発表したパンフレット「ユダヤ人と彼らの嘘について」の英文からの翻訳を読んでみましたが(書物*でも、webサイトでも読めます)、一読して衝撃を受けました。心が凍るような気がしました。ルターの反ユダヤ主義神学を、ナチス・ドイツユダヤ民族のホロコーストのための理論づけにそのまま使ったと言われるのも、あながち見当外れではない気がします。このパンフレットは、最初はユダヤ人に友好的であったルターが、期待したプロテスタントへの改宗が実現しないことを知って怒りを爆発させた結果書かれたものと言われています。
*「ユダヤ人と彼らの嘘・仮面を剥がされたタルムード」(監訳:歴史修正研究所、雷韻出版2003年6月20日初版)
 この書は、ユダヤに批判的な立場から翻訳出版されたもののようですが、史料としての客観性を疑う必要はないと思います。

 このルターの著作が偽書ではない証拠に、例えばリヒャルト・フリーデンタールの定評ある大部の伝記である「マルティン・ルターの生涯」(新潮社、昭和48年12月30日初版)に下記のような記述があります。
”ルターはユダヤ人に対して、新旧両様の非難を動員している。すなわち彼は、ユダヤ人がキリストに対して行ったような似而非(えせ)宗教的な中傷をユダヤ人に浴びせ、これと並行して、ユダヤ人は利子で儲けるとか、医術を悪用してキリスト者に害を与えようとしているという非現実的な中傷を行っている。皇帝軍の指揮者フライエル・フォン・カーツィアンの軍隊がトルコ軍に大敗を喫したとき、ルターはこの人物が生粋のユダヤ人に違いないと思い込んだ。これ以外には彼の軍隊が蒙った壊滅的打撃の説明がつかないというのである。こういう話は、我々自身の時代に生じたこれと相通じる悪魔信仰(ヒトラー崇拝のこと)を鮮やかに思い起こさせる。人はそのころ、かつてルターが書いた「ユダヤ人とその虚言について」、あるいは「聖なるみ名とキリストの血筋について」という著作を好んで利用したものである。”

 ルターの伝記と言えば、ローランド・ベイントンの「我ここに立つ マルティン・ルターの生涯」(青山一浪、岸千年訳、昭和29年10月1日初版)を挙げない訳にはいかないでしょう。ここにも晩年のルターがユダヤ人を非難した論文についての記述があります。
”・・劇的な歳月の闘争と労苦が、彼の健康を傷つけて、年にも似ず、気むずかしくて、制御しにくい、時には明らかに粗野な、かんしゃく持ちの老人にしたからである。これは疑いもなく、伝記作者たちがこの期間を取り扱う場合、簡単に端折ろうとする、今一つの理由である。そこには、人がむしろおおい隠したいと考える幾多のできごとがあるが、まさしくそれらこそ、往々彼の信用を失墜させるため、利用されているのであるから、記録せずに置くわけにはゆかない。”と前置きした後で、
”晩年にルターがしばしばひどく脅かされていた時、キリスト教徒たちがユダヤ教に帰依するように勧告されている、というしらせがきた。そのとき彼は下品な憤りの文章を発表して、その中で、ユダヤ人を全部パレスチナへ追放せよと勧告した。そうしない場合には、かれらが高利貸をすることを禁ずべきであるし、・・・。”と述べたうえで、
”人は、ルターがこの論文を書く前に死ねばよかった、という気がする。”とまで書いています。
 フリーデンタールもベイントンも話が微妙になると<人は>という意味のよく分からない主語を用いています。(あくまで翻訳された言葉ですが)これは、とりも直さず、伝記作者自身が晩年のルターについていかに困惑しながら書いているかの証左でしょう。
 一方、日本人の著者によるルターに関する著作では、眼に触れた限り、(後述する川端純四郎氏のバッハについての著作を別にして)ユダヤ人についてのこの文書に言及しているものはないようです。例えば、
「人と思想 ルター」(小牧治外著、清水書院、昭和45年4月10日初版)
「人類の知的遺産26 ルター」(今井晋著、講談社、昭和57年1月10日初版)
 やはり、ここはきちんと検証しておかないと、シオニストユダヤの陰謀とかシオン賢者の議定書が云々などと言う人々によって都合よく利用される危険があります。
 ここで思い出したのは、中世のイベリア半島での<レコンキスタ>達成の結果生まれたユダヤ教を偽装棄教してカソリックへの改宗したユダヤ人の蔑称”マラーノ(豚)”のことです。マラーノについてはイルミヤフ・ヨベルのスピノザ 異端の系譜に詳しく載っています。(日本におけるマラーノに関する有数の権威である小岸昭先生などが訳されています。小岸先生ご自身にもマラーノに関連した著書がいくつかあり、みなこの問題を深く探究・考察された、きわめて示唆に富んだ著作ばかりです。)
 ルターは、<レコンキスタ>達成後のスペインに現れた、カソリックの恐るべき大審問官トマス・デ・トルケマダと何ら変わらないではないか、と思わずにはいられません。
 ついでに言えば、このスペイン・ポルトガルに生活していたユダヤ人は、スファラディユダヤ人で、東ヨーロッパにコミュニティを作っていたアシュケナジーユダヤ人とは異なります。この問題に深入りすると際限がなくなりますので、これで止めますが、後者の出自がハザール人であったとする論議がwebでも多く見られます。アーサー・ケストラーの「ユダヤ人とは誰か」(宇野正美訳、三交社、1990年5月1日)は、こうした論議のもとになった、読み物としては大変面白い書物なのですが、(訳者がやや曰くのある方ということもあって)真偽のほどは分からず、やや眉唾な感じがしないでもありません。。
 そこで、いずれにしてもバッハその人が果たして反ユダヤ主義者であったのかという疑問に直面します。それはイエスでもありノーでもあると言えます。このことに関しては、宗教音楽家としてのバッハについて書かれた最も優れた本である「J.S.バッハ 時代を超えたカントール」川端純四郎著(日本キリスト教団出版局)が詳細に分析・考察していて、成程と思わせますが、一応私なりに、川端氏の著作をもとに、この件について簡単に考えてみたいと思います。
 まず<ヨハネ受難曲>の反ユダヤ主義に関して川端氏が引用している音楽史家のホフマン・アクストヘルムが、その主張の根拠としている第21曲から第23曲までをバッハ・コレギウム・ジャパンの映像で確認したいと思います。テロップで英訳が出ますので理解しやすいかと思います。
ヨハネ受難曲第21曲〜第23曲
 川端氏はこれに関し、”十字架につけよ(kreuzige)”や”殺せ(weg,weg mit dem)”その他の群衆の合唱で、ほとんど同じ曲を用いることで、イエスを神の子と認めないユダヤ人の「かたくなさ」が強烈に示され、これにより<ヨハネ受難曲>が「反ユダヤ主義」に貢献したのだ、というアクストヘルムの言葉を紹介しています。
 ただ、<ヨハネ受難曲>で「反ユダヤ主義」と思われる個所はすべて福音書聖句であり、問題はヨハネ福音書そのものであると川端氏は分析します。
 しかし、たとえ福音書聖句であってもそれを選んだのはバッハであるから、川端氏は、バッハが時代の子として「反ユダヤ主義」を一般的先入観として持っていたと思われると考えます。
 それならば<マタイ受難曲>も似たようなものです。”Laß ihn kreuzigen!”と繰り返し群衆が叫びます。ただし、wegというような激烈な言葉はない分穏やかとも言えます。マタイ受難曲は、「ペテロの否認」がこの曲の頂点であり、この場面に重心が置かれていて、ヨハネ受難曲とはやや趣を異にします。
 しかし、結論として氏は次のように述べます。
「バッハの漠然とした<反ユダヤ感情>を育んだのはルターだったのかも知れません。しかし、・・・ルターの罪にもかかわらず、ルターが聴いた神の言葉は、伝えるルターの罪を克服して、今も私たちに神の恵みの出来事を告げ知らせてくれると私は信じます。これがバッハと<反ユダヤ主義>についての私の考えです。<ヨハネ受難曲>を聴く時、自分の罪を涙とともに告白し、そしてセバスチァンと共に歌いたいと思います。”主よ、あなたを十字架につけたのは、それは私です”と。」
 これはこれで、宗教家としての川端氏の言とすれば十分理解はできますし、敬意を払わざるを得ません。しかし信仰のない私にとってはやはり釈然とはしません。
  
 ギュンター・シュティラーの名著「バッハとライプツィヒの教会生活」(バッハ叢書第7巻、白水社、1982年5月15日初版)によれば、「彼の音楽をただ音楽それ自体のために作曲し演奏した自立的音楽家としてのみバッハを理解しようという努力は、最初からきわめて問題あるものと見ざるをえない。」とし、ヴァルター・ブランケンブルクの著書を引用して「バッハの本来の精神的故郷がルター正統主義であったということはあらゆる真正なバッハ研究者にとって明白」と述べています。
 また、シュティラーはバッハの蔵書に触れた部分で、「バッハは1742年にも八巻本のドイツ語版ルター著作集をかなりの値を払って入手したし、バッハの死後、155年版のこの八巻本のドイツ語版ルター著作集のほかにも1539年版の七巻本のラテン語版ルター著作集が彼の蔵書の中に見出されたのである。」と述べています。この著作集の中に上述の反ユダヤの著作が含まれている可能性もあります。参考までに述べると、前記ベイントンのユダヤ人に触れた文章は、Weimarer Ausgabeからの引用です。多分「ヴァイマール版ルター全集」のことでしょう。
 かくのごとく、ルター派の神学と信仰の申し子として、ルター派正統主義のための礼拝音楽を創作しつづけたバッハには(ルターとは同日には論じられませんが)、「反ユダヤ主義」とまでは言えないまでも、やはり(時代の子として)生来の抜き難い「反ユダヤ感情」があったとの疑念を完全に払拭するのは難しいようです。
 だからと言って、決してそのことのみによってバッハの音楽の価値が貶められるものではありません。依然、音楽史上の最高峰として屹立する存在であり続けているのです。それから先については、バッハの音楽を愛するそれぞれがこの問題に向き合い考えるべきことであると思います。
 最後に、娘がメールで送信してきたライプツィヒ郊外の写真を紹介して終わりたいと思います。