エフゲニー・コロリオフのバッハ<フーガの技法>


「バッハをCDで究める」(福島章恭著、毎日新聞社2010年3月15日)はまことに奇妙な本です。
 名演として紹介されている演奏が、とても手に入らないような希少なアナログLPが主で、CDは従といった感じです。本のタイトルと中身のコンセプトがややすれ違っています。正確には「バッハの器楽曲をLPと一部CDで究めるー希少盤を中心として」とでもすれば分かりやすかったのですが。
 歴史上の人物である伝説的な大音楽家(ジョルジュ・エネスコ)や、今まで聞いたこともないような演奏家のLPやCDが名演として続々と紹介されます。これには一種の知的興奮を覚えました。明らかに従来のクラッシクCDの紹介本と一線を画しています。
 ただ、これらの大部分が極めて手に入りにくいという点に大いに歯がゆさを覚えます。普通の音楽愛好家にとっては、マニアックに過ぎ、でき得れば比較的入手し易いCDの中から選んでもらった方が有難かったかも知れません。しかし、読み物(?)としては、これはこれで面白く、脳に鮮烈な刺激を与えてくれます。バッハの主要な器楽曲の名演を選び抜く氏の眼力を信じるに足る説得力に富んだ筆捌きは、ある種凄みさえ感じさせます。

 この本に大いに心動かされて、福島氏が力を込めて褒めそやすCDの中から、HMVなどを検索して、手に入り易いCDを少し買い求めました。例えば、グスタフ・レオンハルト指揮の「ブランデンブルグ協奏曲」やエフゲニー・コロリオフの「フーガの技法」など数点です。
 まず、レオンハルト指揮の「ブランデンブルグ協奏曲」。メンバーを構成しているオリジナル楽器の大家たちの顔触れは、まさしく豪華の一語に尽きます。フランス・ブリュッヘン(fl)、アンナー・ビルスマ(vc)、ジギスヴァルトとヴィーラントのクイケン兄弟(vn、vc、VdG)、ルーシー・ファン・ダール(vn)、そしてレオンハルト自身(clav)。
 無論、演奏そのものも、絶妙なアンサンブルやそのみずみずしい高貴さにおいて、かつて聴いたこともない、心憎いばかりの名演です。繰り返し聴くほどにその音楽の偉大さに言葉もなく、ただ嘆息するのみでした。


 そして、エフゲニー・コロリオフの「フーガの技法」、無垢な朝露のようなそのピアノの一音一音の造化の妙!奥深い人間性を感じさせる抑制された知性的なタッチ。それにこの偉大な曲の構成全体に対する見通しの確かさ。演奏が進んでいっても最後まで失われない澄明感。買い求めてから、かれこれ30回以上は聴きましたが、決して聴き飽きるということを知りません。
 CDケースの裏面には、この録音について述べたというハンガリーの現代作曲家ジェルジ・リゲティ(György Ligeti)の言葉が記されています。

   "⅐⅐⅐ but if I am to be allowed only one musical work on my desert island,then I should choose Koroliov's Bach,because forsaken,starving and dying of thirst,I would listen to it right up to my last breath."  
 何という凄い賛辞でしょう。そこまで言うか、と思ってしまうほどです。
 コロリオフについては、「フーガの技法」についてのHMVのレビューに詳しく載っています。
 この曲は、これまではトン・コープマンと夫人のティニ・マトーによるチェンバロの演奏(CD1枚に収録され、1,000円という飛びっきりのお買い得です。)で親しんでいましたが、福島氏の著書で認識を新たにしたコロリオフ(何という不勉強!)のピアノによる演奏を初めて聴き、目から鱗が落ちた思いでした。
 「フーガの技法」とは決して対位法を究めるためだけの理屈倒れの作品ではなく、バッハが全身全霊をもって織り上げた血の通った精緻な作品であり、人知の限りを尽くして音楽宇宙の摂理を究めようとした空前絶後の試みだったのです。そこでは最早、ベートーヴェンショパンが目指したようないわゆる芸術としての音楽は聴こえてきません。大袈裟に言えば、この曲を聴くということは、清浄でいかなる執着もない宇宙万物の実相に迫る理法の働きに身を委ねるということなのです。
 そもそもこの曲は、「ひとつの単純なテーマからいかに多くの対位法的展開の可能性を引き出せるかを、体系的・論理的に追求した作品」(鳴海史生トン・コープマン盤のライナー・ノーツより)なのですが、曲順と使用楽器について過去さまざまな説が唱えられてきました。その詳細についての検証は私の力に余る(be beyond my ability)ので、この辺で止めることにします。
 なお、you tubeで、福島氏が推奨して止まぬジョルディ・サヴァールの”エスペリオンXX”による演奏(静止画面)による「フーガの技法」の映像を見つけました。この演奏が聴けるのは思いもかけなかったので、本当にびっくりするやら嬉しいやら。とりあえず、contrapunctus1と2をここに紹介しますが、他の各曲も聴くことができるので、ぜひご参照を。(投稿者の方に心より感謝します!)
(なお、残念ながらyou tubeにはコロリオフの映像はありません。この曲を始め、バッハの演奏では相変わらずグレン・グールドの映像が大部分を占めています。私たちは、一体いつまで<バッハ=グールド>の定理に呪縛され続ければ気が済むのでしょうか?)