グスタフ・マーラー、その不穏な精神の荒野

 何年ぶりかで「レコード芸術」(’10年11月号)を買ったのは、<マーラー生誕150年記念 レコードでたどるマーラー演奏の100年>という特集をたまたま見かけたからでしたが、その時は、これも偶然ですが柴田南雄「グスタフ・マーラー」を書棚から引っ張り出して読み返している最中でもありました。
 マーラーと言えば現在座右に置いて聴く機会の多いのは、EMIのクラウス・テンシュテット指揮による交響曲全集(ロンドンPO)ですが、他にもテンシュテットが病気回復した一時期にライヴ録音された第5番と第6番も合わせて聴いています。
 しかし。マーラー交響曲の主要なものについては、私にとっての”決定的名演”らしきものがあります。
 まず、1975年にカルロ・マリア・ジュリーニウィーン交響楽団と来日した際、厚生年金会館(10月4日)で聴いた交響曲第1番です。いままでライブに接した指揮者の中では、このジュリーニが後で述べるエリアフ・インバルと共に最も強く印象に残っています。(ヨッフムカラヤンアンチェルムーティもさほど記憶には残っていません。もっとも、ごく最近聴いた、コルボやブロムシュテットは別ですが。)
 第3楽章でハープと弦楽器で奏でられる”さすらう若人の歌”の旋律の息をのむような美しさは、いまでも鮮やかに思い起こすことができます。
 第2番はジュゼッペ・シノポリのCD(フィルハーモニアO)です。CDが発売された時の新鮮な驚きははっきりと記憶に残っています。NHKテレビ(芸術劇場)でも放映されましたが、メリハリの利いた傾(かぶ)いた指揮ぶりには吸い込まれるような魔力を感じました。余談ですが、シノポリとよく共演されていたヴァイオリニストの渡辺玲子さんをこの直後の時期に鹿児島空港でお見かけしたことがあります。手荷物受け取りのターンテーブルの前で、一人でヴァイオリンを抱えて立っておられる姿が印象的でした。これもNHKテレビ(芸術劇場)で2人の共演になるシベリウスのヴァイオリン協奏曲を観たばかりだったので、すぐに分かりました。それにしてもシノポリの早世が本当に惜しまれます。シノポリの「新ウィーン楽派作品BOX」は、聴きごたえのある、彼の実力を如何なく発揮した後世に残る記念碑的名盤となっています。(渡辺玲子さんがベルクのヴァイオリン協奏曲のソロを受け持っています。)
 第5番は、CDではショルティ(シカゴSO、1970年3月)が圧倒的でしたし、ライブでは福岡市で聴いたエリアフ・インバル(フランクフルト放送SO)のまさに自家薬籠中とでもいうべき入念で円熟した指揮ぶりに完全に心を奪われました。
 第6番は徹頭徹尾テンシュテット、第9番は昔は御多分にもれずジョン・バルビローリ(ベルリンPO)でしたが、今はやはりテンシュテットです。
 ところで、ここで少し考えてみたいのは交響曲第3番です。中でもテンシュテット盤で33分06秒もかかる長大な第1楽章は、数あるマーラー交響曲の中でも色々な意味で大変考えさせられ、かつ心魅かれるものを蔵しています。
 ここは、十九世紀末という時代の子マーラーの精神構造に関わる情報がぎっしりと詰まった部分であり、不安と孤独と絶望で精神の平衡が崩れる寸前のぎりぎりのところを、神聖と通俗、知性と野蛮がない交ぜになったアンビバレンツな魂が彷徨っているのを感じます。ここで見る世界は、不可解な感情の高揚があったかと思えば、突如として不安に駆られた神経が八方にうごめき始めるという不穏な精神の荒野です。
 まず、クラウディオ・アバドとベルリンPOによる演奏で、第1楽章の冒頭部分を聴いてみます。

 しかし、アバドのスマートな演奏表現はこの曲の真相をえぐり出すことには必ずしも成功していません。やはり、戦後、東ドイツというアンビバレンツな世界を生き延びてきたテンシュテットの手によるとき、この曲はその本当の姿を現すのではないでしょうか。(東ドイツの指揮者の中には、ヘルベルト・ケーゲルのように、生き延びることができずに東西ドイツ統一直後に拳銃自殺を遂げた指揮者もいるのです。)
 ロンドンPOという必ずしも超一流ではないオケの余裕のない必死さがむしろテンシュテットの感性に合い、マーラーを完全に手の内に入れた心憎い演奏となっていて、そのデモーニッシュさはまさに鬼気迫るものを感じさせます。そして、やがて訪れるであろう時代への不安感を色濃く鏤(ちりば)め、曲に潜む様々に矛盾しあう作曲者の重層的な感情の襞の中まで踏み込んだ切れ味鋭い演奏を展開しています。
 柴田南雄の前掲書でも、交響曲第3番の第1楽章の主題を分析した後に、テンシュテットの演奏を推奨しています。
 では、テンシュテットの演奏による交響曲第3番第1楽章の冒頭部分を聴きます。(なおyou tubeで、4分割で第1楽章を全部聴くことができます。)

 岡田暁生氏は柴田南雄氏の前掲書の解説で、柴田氏が第3番第1楽章の冒頭部分の主題分析している部分に関連して、マーラー交響曲の特異性を「あらゆる音が何らかの引用になっていて、それらのモンタージュが作り出す観念連合が、一つの長大な詩になっていく点にある。」と述べています。
 しかし、マーラー交響曲ほど聴き手のその時々の一身の状況や心理状態によって受け取り方が左右される音楽もまれです。一読難解な岡田氏の解説が何となく肯ける場合は、精神が極度に集中していて、生活上の雑念がほとんどない準評論家的な心境の時と言えるでしょう。しかし、人生における大きな危難や仕事上での困難、家庭においての深刻な悩みなどの事態に直面している時には、多分マーラーの大袈裟なサウンドが、ただ”やかましい”とか”うるさい”としか感じられない場合もあるでしょう。あるいは自分の抱えている苦悩や不安がマーラーの旋律と共振・同調して、曲を聴くことが苦痛で耐えられなくなることもあるでしょう。
 また心境によっては、ただダラダラと長いだけの退屈な曲としか感じないこともあるでしょうし、これらの曲は精神の平衡を失った異常者による作品かと思う精神科医もいるかもしれません。(躁鬱症あるいは誇大妄想?)
 人は千差万別であると同時に、また、一人の人間ですら常に多数の矛盾した、整合性のない考えを抱き、矛盾した状況に身を晒しています。人の精神を不穏にするマーラーの音楽を心から楽しめる場合は、多分その時その人は幸せの中にあるのでしょう。 
 なお、テンシュテットの鬼気迫る指揮ぶりの分かる映像がありました。モノクロの映像(最後の方で一部カラーに転換する個所がありますので、誰かがわざとモノクロに編集したのかも知れませんが?)のせいでとてもAwesomeな感じがします。オケも年代も場所も分かりません。
 曲は、リヒャルト・ワグナーの「神々の黄昏」から<ジークフリートの葬送行進曲>です。

追加(22年11月20日
 マーラーの第9番には、バーンスタインベルリンフィル、という決定的名演がありました。書き洩らしましたので、追加しておきます。