独断と偏見で選ぶこの世で最も心に響く名曲10選(その2)<ムターのツィゴイネルワイゼン>

 この曲は誰でも知っているヴァイオリンの定番曲で、1904年のサラサーテ自身の演奏を筆頭に、大御所から、それこそ有象無象に至るまで数限りない演奏が存在しますが、ヴァイオリンの演奏効果を顕示するために曲の表層をなぞっただけの凡百の演奏を尻目に、ひときわ高く聳え立つ、現在における絶対的名演があります。
 ツィゴイネルワイゼンは、曲としては同じサラサーテの作曲した「スペイン舞曲集」に比べればいささか質が落ちると音楽評論家に言われている、可哀そうな小曲ですが、ハンガリーのロマの旋律が独特の哀愁を漂わせていて、ヴァイオリンのテクニックの見せ所もあってか昔から人気があり、かく言う私も大好きな曲です。
「ロマ」は、歴史的には「ジプシー」という名称で知られてきた放浪民族ですが、今ではは差別的ニュアンスがあるという理由でこの名称の使用が避けられ、「ロマ」呼ぶようになったものです。ただ、歴史的に固有のジャンルとして定着しているものはジプシーという言葉を用いています。1410年ころからハンガリーに現れ,国王ジグモンドから庇護を受け、多く定住するようになりました。ロマは生来音楽を好み、1700年代には、ジプシー楽団の成立をみています。ただ、ハンガリー固有のマジャルの音楽とジプシー音楽は異なります。コダーイバルトークの収集したのは、あくまでマジャル伝統の民族音楽です。

 以上の説明の多くは横井雅子さんの「音楽でめぐる中央ヨーロッパ」(三省堂)に負っていますが、この本は、ポーランド、チエコ、ハンガリーの音楽事情を、歴史的に踏まえて書いた実に面白い本です。
 しかし、万人に愛されている曲が、あまり聴かれることのない曲に比べて質が落ちるとは何を基準にしているのかさっぱり分かりません。クラシックの場合似たようなことがよくありますが、一体誰がそんなことを決めているのでしょうか。(音楽評論家?)「スペイン舞曲集」の<マラゲーニャ>も<ハバネラ>も<アンダルシアのロマンス>も<サパティアード>も、別にそれほど聴きたいとは思いませんけれど・・・。



 このツィゴイネルワイゼンは、昔からヤッシャ・ハイフェッツやマイケル・レビンの演奏などで聴いてきて、これらに勝る演奏はないものと思っていました。しかしあったのです、ハイフェッツ、レビンをしのぐ演奏が!

 その演奏を行ったヴァイオリニストは、アンネ=ゾフィー・ムターです。

 ヴァイオリンの完璧なテクニックは無論のこと、無限に変化する重層的で蠱惑的な音色(豊満な低音から、絹糸のようなつややかな高音まで)、旋律に込められた感情表現の豊かさ、全てを見通し、考え抜いた曲の構成、細部をゆるがせにしない繊細さ、深読みしすぎていると思わせるほどの曲の理知的解釈、そして気の入り具合まで、数えあげていたらきりがありません。(イワシの頭も信心から?)
 このような小曲を、あたかもベートーヴェンブラームスの曲に対するかのように解釈に念を入れすぎているのが嫌味だと思う人もいるでしょう。それも多少は頷けるものがあるとしても、一度彼女の演奏を耳にしたら、他の演奏が皆つまらないものに聴こえるから怖いものです。
 特に中間部の ”Un poco piu lento”の美しさは比類がありません。この短い旋律を、弱音器を付けて切々と心に沁み入るように奏でており、およそ聴き飽きるということがありません。

 冒頭に述べたように、この曲にはサラサーテ自身の演奏した有名な録音が残っています。なぜか、中間部の” Un poco・・・“に当たる部分が全部抜け落ちていますが、テクニックの凄さは辛うじて感じられます。ただ、いかんせん古すぎて、骨董的価値を評価するしかありません。

 サラサーテの生誕150年を記念した「ザ・ベスト・オブ・チゴイネルワイゼン」というCDがありますが、サラサーテ自身から始まって、ミッシャ・エルマン、ヤン・クーベリック、アンリ・メルケル、ヴァーシャ・プシュダホ、ジーノ・フランチェスカッティなどなどほとんどが1900年前半の歴史的名演で、録音が古すぎて(ハイフェッツ以外は)これも骨董的価値でしか評価できません。
 最近では、ジョシュア・ベルがなかなかいいですね。後は、サラ・チャンギル・シャハムなどもいますが、今一つというところです。後者は、ブーレーズと共演したバルトークのヴァイオリン協奏曲がよかったと思いますが、こんな小曲は彼にとってはちょっとした遊びなのでしょう。イツァーク・パールマンを押す人もいますが、つややかな音色で技巧にたけた演奏をするものの、(私にとっては)特に心にひびくものはなく、昔からどうも好きになれないヴァイオリニストの一人です。 


 サラサーテ自身の演奏したレコードをめぐる小説に、内田百間の<サラサーテの盤>があります。「吹き込みの時の手違いか何かで演奏の中途に話し声が這入っている。それはサラサーテの声に違いないと思われるので、・・・」というネタ話を狂言回しにして、ひとひねりしたテーマで怪談話に仕立て上げた、心に残る傑作短編小説です。(百間の間は本来、門に月ですが、変換ができないので、間としました。悪しからず。)




















 以下はムターの演奏ですが、伴奏はジェイムズ・レヴァイン指揮のウィーンフィルハーモニーです。