独逸旅行日記(3) チェコ番外編 その2<迷宮都市プラハ>

 プラハは過去現在の時空が複雑に交錯している、まさしく迷宮の都市です。
 前回は、夕食の報告したところで終えましたが、その後ホテルへ帰ろうとして私たちは、なぜか道に迷ってしましました。あせって訳も分からず石畳の道を歩いているうちに、こんな建築物が次第に眼に入ってきました。「カレル橋だ!」と娘は小さく叫びました。それはカレル橋の旧市街側の橋塔だったのです。何と、私たちはホテルとは全く逆の方向へ歩いていたことになります。
 
 次第に橋に近づくと、そこから遠望できる夜のプラハ城を夢心地のなかで見ることになります。時間は午後7時前、私たちは最も素晴らしい時刻に最も素晴らしい場所に迷い込んだのでした。夕闇迫るカレル橋から見るプラハ城は、まるでおとぎ話の世界にいるようでした。また、手前の大きな川は、日本ではモルダウ川として知られるヴルタヴァ川です。左はプラハ城の遠景、右はカレル橋を造らせたチェコ王のカレル一世(神聖ローマ皇帝としてはカール四世)の像です。この像は、カレル橋の旧市街側、つまり私たちが辿りついた側のたもとの「聖十字架修道会広場」に立っています。
 
 こんな時刻にも関わらず、カレル橋の上を行き交う人の多さには驚きます。ここはまさしくプラハ随一の景勝の地であることを証明しています。
 カレル橋は、勿論世界遺産登録建築物です。
 
 翌10月3日の午前、トラムに乗ってプラハ城を訪れました。この城内での最大の見どころは、何と言っても聖ヴィート大聖堂です。この建築物を眼の前にしたとき、その圧倒的な質量感と存在感に、感嘆のあまり言葉を失いました。
 フランス人建築家のアラスのマティアやそれを引き継いだ弱冠23歳のドイツ人建築家のペトル・パルレーシュなど幾多の著名な建築家の手を経て1929年に完成したこの大聖堂は、中欧ゴシック様式を代表する建物で、塔の高さは何と96.6メートルもあります。完成までにおよそ600年を要したという、何とも気の遠くなる話です。
 左は、南側正面の「黄金の門」で、建物右側には補修用シートがかけられています。右の写真は西側正面です。
 
 
 左上は、西側正面前の雑踏です。プラハでは、こことカレル橋がとにかく圧倒的な観光客を集めています。
 右上は、プラハ城内の聖ヴィート大聖堂の近くにあるロマネスク様式の聖イジー教会で、10世紀にバシリカとして建てられました。城内最古の建物です。聖ヴィート大聖堂と並んで世界遺産登録建築物です。
 では、少し聖ヴィート大聖堂の内部を、私が撮影できた範囲内で見てみたいと思います。
 
 右上の写真の天井は、パルレーシュのデザインしたリブ・ヴォールトで、クワイヤ(教会内の聖歌隊席)のベイ(一区画)を横切るリブが、古典的なヴォールト(穹窿)のように1本ではなく2本あり、ジグザグ模様を描いています。(ヴォールトは一言でいえば”かまぼこ型の天井様式”のことで、リブは肋骨状の補強材のことをいいます。)
 
 大聖堂内のステンドグラスの一部です。
 左上のステンドグラスは、チェコの著名な画家のアルフォンス・ムハ(フランス語読みでは「ミュシャ」)が新しく装飾した「聖キュリロスと聖メトディオス」です。
 左下は、少し遠いのですが、聖ネポムツキーの墓碑と思われます。
 
 プラハ城を見た後訪れたカフカミュージアム(左)です。訪問者はまばらで、プラハの一番の売りである筈のカフカも侘しいかぎりです。ミュージアムの中の展示物には、見るべきものが多く、数少ない訪問客も一人ひとりが極めて熱心に展示物に見入っていました。むしろこのほうがカフカにはふさわしいのかも知れません。
 右は、カレル橋上の人形遣い芸人(右)です。予め了解を貰って撮影したので、カメラに向かって微笑んでくれました。
 

 私たちは疲れた足を引きずって夕食のため、有名なビヤホール”ウ・メドヴィドゥクー”へ向かいました。何しろオール石畳のプラハの道を歩くには、ことさら筋肉を使うので、もうへとへとです。
 左が、飲んでみたかった元祖バドワイザーです。右は料理で、鯉のフライとグリルチキンです。鯉は、娘がおいしいと言っていました。

 左は、ビヤホールの入り口です。右は、宿泊先のホテルの玄関です。このホテルはムハ(ミュシャ)美術館の斜(はす)向かいにあります。
 今日は疲れて、ぐっすり眠れそうです。明日はいよいよ列車でベルリンへ向かいます。