独逸旅行日記(2) チェコ番外編 その1<カフカのプラハ>

 プラハは長い間ハプスブルグ家の支配下にあり、その後オーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。ややこじつけ的ですが、プラハを独逸旅行日記の番外編として位置付けることにしました。
 10月2日朝ライプツィヒ中央駅で娘と落ち合い、午前8時54分発の列車でドレスデンへ向かいます。プラハへはドレスデンで乗り換えとなります。乗客は国際色豊かで、近くの席のフランス人の年配の女性から話しかけられました。フランス語、ドイツ語、英語が話せるとのこと。勿論私ではなく、もっぱら娘が話し相手になっていました。
 
 左は列車内部、右はドレスデン近くの車窓風景です。川は多分エルベ川でしょう。
 ライプツィヒを出てしばらくは、ヨーロッパ中央部特有のまっ平らな土地が延々と続きます。山も近くには見えません。ドレスデンに近くなって、ようやく風景に少し変化が見られるようになりました。家や森が次第に増えてきます。
 
 左は、列車が到着直後(10時42分)のドレスデン駅。右はプラハへ向かう2等車の車両です。(11時10分発)
 12時前にドイツ、チェコの国境を超え、13時36分に無事プラハに到着です。
 

 左上は、チェコ側の国境の駅デシン(読み方は正しいかどうかわかりません)、右上はチェコに入ってからの車窓風景です。下はプラハ駅。
 チエコでは特に音楽に関するエピソードはなく、もっぱら観光案内になってしまいます。悪しからずご了承を。 

 ホテルにチェックインした後、町へ出ます。プラハの町を初めて見て、これは中世がそのまま生き残った驚くべき都市だと本当に眼を瞠りました。道路は車道も歩道もすべて石畳で、尖塔の多い建物といい、極彩色の建物といい、そして街全体の歴史劇場の書き割りのような雰囲気といい、その印象は圧倒的でした。
 まず、旧市庁舎を含む旧市街広場(左)を訪れ、近くのティーン教会(右)ヤン・フスの像(下)を見てから、今回のプラハ訪問の目的の一つであったカフカの生家を訪れました。(この3つの建築物は、いずれも<プラハ歴史地区>として世界遺産に登録された地域にあり、それぞれ登録建築物となっています。)

 

 ヤン・フスは、ルターがドイツ宗教改革の火の手を上げる約100年前に、プラハでの宗教改革の担い手になった人物で、カトリック教会から破門され、最後はコンスタンツ公会議で有罪とされて焚刑の処せられました。毀誉褒貶を経たのち、19世紀になって再びチエコ民族の英雄として崇拝されるようになり、1915年のフス火刑500周年にチェコの彫刻家シャロウンによってこの像が制作除幕されたのです。
 旧市街広場に隣接した聖ミクラーシュ教会の先に、フランツ・カフカの生家跡があります。現在は記念館となっています。上左が聖ミクラーシュ教会、上右がカフカの生家跡の壁に掲げてある記念板、下が記念館と記念館の入口です。入り口の左上にカフカの手のレリーフが見えます。
 
 
 高校時代、兄の書棚には新潮社の「カフカ全集」があり、いつも畏怖の念を持って眺めていました。そして、以後彼の作品の多くを読み込んできたにも関わらず、未だにカフカは私にとって大いなる畏怖と謎に満ちた作家なのです。ヤヌホの「カフカとの対話」におけるカフカの姿も秘かな憧憬の対象でした。私が大学の専攻に法科を選んだのも、カフカヴァレリーが法科に進んだことに影響されたのかもしれません。
 また、まるで迷宮のようなカフカの作品には色濃くプラハが影を落としているに違いないと、ずっと勝手に思い込んでいました。今それを確かめる機会が訪れたという期待で胸がときめきます。
 ところで、チェコは1526年から長くハプスブルク家支配下にあり、1826年にはオーストリア=ハンガリー帝国の版図に組み込まれました。カフカが生まれたのはこの帝国下の1883年で、帝国が崩壊しチェコスロバキア共和国の時代となったのが1918年、カフカはその僅か6年後の1924年に亡くなっています。1938年のミュンヘン会談を経て、チェコスロバキアがドイツなどに併合される1939年まではもう間近でした。ヒトラーの時代に生きなかったのは、ユダヤ人のカフカにとっては幸いだったかも知れません。カフカの妹のオットラはアウシュビッツで殺害されていますし、他の2人の妹(エラとヴァリ)も強制収容所で亡くなっています。カフカが生きていれば同じ運命をたどったに違いありません。
 また、カフカの恋人とも言われ、「ミレナへの手紙」で知られるジャーナリストのミレナ・イェセンスカは、チェコ人にも関わらずユダヤ人擁護運動に関わったということで、ラーフェンスブリュック強制収容所に収容され病死しています。
 こうした記録を追っているだけで、本当に心が凍ってきます。このような時代があったことや、このような苛酷な運命をたどった民族や人々がいたことを知るとき、人間は状況次第では、いかなる倫理にも拘束されずに果てしなく腐敗堕落していく残酷な生物であるということを痛感します。
 下記の写真は、ユダヤ人街にある旧新(スタロノヴァー)シナゴーグ(左・世界遺産)、それにスペイン・シナゴーグ(右)とその前に立つカフカの像(下)です。旧新シナゴーグは、現存する中欧最古のシナゴーグで、1270年代の建築と言われています。
「シナゴーグ」についてはウィキペディアを参照してください。)
 

 この日はユダヤ人街に隣接したインター・コンチネンタル・プラハ近くのホスポダ(居酒屋)の「ポトレフェナ・フサ」で夕食を採りました。(下記写真は、外観と店内の様子)チェコのビールメーカーの”スタロブラメン”の直営店です。
 

 なお、食事の後、黄昏時のカレル橋を訪れ、プラハ城の夜景を見るのですが、長くなるので次回にします。
*なお、プラハの案内書は沢山ありますが、石川達夫著「プラハ 歴史散策」(講談社+α新書)プラハの歴史や歴史を彩る主要な人物についての記述が深いところまで行き届いていて、一番参考になりました。今でも座右において読み返している、心に残る優れたガイドブックです。