ベートーヴェンは〈弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 作品131〉で神に近づいた?

 五味康祐氏は端倪すべからざるオーディオマニアで、クラシック音楽に極めて造詣の深い作家でした。氏の著書に「天の聲―西方の音」がありますが、これは氏の代表的な音楽論(というか、音楽による自省録みたいなもの)で、以前出版した「天の聲」の続編です。出版は昭和51年ですから随分と昔のことです。
 この著書の中に「ベートーヴェン弦楽四重奏曲 作品131>」という一章があり、この曲に重ねてやや自虐的な人生の感懐をセンチメンタルに綴っています。
 五味氏はこの章のなかで「ベートーヴェンの音楽は、ついに、生き難さを知らない人にはわかるまい。」と書いています。しかし今の時代、生き難さを感じる人だらけになっているような気がします。生き難さを感じる感度が高くなっているのかも知れません。それは、当時と比べて精神的にも肉体的にも人間が基礎的に衰弱しているからではないでしょうか。まだそこまで堕ちてはいない、その頃の時代の雰囲気を考えれば、五味氏の言葉は、少し斜に構えて、むしろ芸術家としての資質と誇りを語っているような気がします。

 初めてこの曲を聴いたのは、ぐうたら大学生の頃、音楽好き仲間といつもたむろしていた「白鳥」というばかでかい音楽喫茶でした。聴いた瞬間に、ビビッと私の音楽的嗜好のアンテナに引っ掛かりました。そして聴き進めて行くに従い、次第に親和力が高まって行くのを感じたのです。

 当時、大学のドイツ語教師でH先生という方がおられ、われら音楽好き学生たちの師匠格というか、むしろ仲間という感じで、皆で随分と親しくさせてもらっていました。。H先生はレコードを多く収集されており、お願いしてバリリ弦楽四重奏団の<ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集>を拝借して、初めて全曲を通して聴いたことを思い出します。それによって、この四重奏という形式が私の体質とよく馴染むということを認識しました。以後、他の作曲家の弦楽四重奏曲も好んで聴くようになります。
(そう言えば、私が大学を卒業して就職のため新潟を去る際に、H先生から餞別として、先生が大変愛好されていた<ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番 イ短調 作品132>のレコードを頂いたことを思い出します。私はウエストミンスターのこのレコードを、今でも手元で大切に保管しています。)

 この時代、ベートーヴェン弦楽四重奏団の演奏に限って言えば、ブダペスト弦楽四重奏団かこのバリリ弦楽四重奏団を選択することになります。前者は、ヨーゼフ・ロイスマン、後者はワルター・バリリという卓越したヴァイオリニストに率いられた練達の演奏団体でしたが、やや色合いが違っており、ここが好みの分かれるところです。
 ブダペストS.Qで私たちが聴いていた録音は、1943年頃の最初の録音盤か、1951〜52年の全集盤か、あるいは第2ヴァイオリンがジャック・ゴロデツキーの死去によりアレクサンダー・シュナイダーに代わって(復帰)から、1958〜1961年に録音されたステレオ全集盤か今ではよく分かりません。印象としては、極めてザッハリッヒで厳格な演奏だったという刷り込まれた記憶があります。しかし私は、どちらかと言えば流麗でウィーン情緒あふれる典雅なバリリS.Qの方が好みでした。

 妄想をたくましくして言えば、バッハは神そのもの、モーツアルトは神の子、そしてベートーヴェン人智を尽くして神に近づこうとした人と思います。そのベートーヴェンが今一歩で神の境地に手が届きかけたのがこの曲<弦楽四重奏曲 作品131>だったのではないかと、これも極めて妄想的に考えています。
 それでは、you tubeにある映像で少し聴いてみたいと思います。左下は、タカーチ弦楽四重奏団の演奏で、第5楽章の途中から第6楽章にかけて、右下は、ラサール弦楽四重奏団の演奏で第7楽章です。いずれも定評ある演奏団体による名演奏であることは周知のとおりですす。 
    
 ベートーヴェン弦楽四重奏曲では、他に<第1番作品18の1>が思い出深い曲です。この曲には、音楽に籠められた私の青春の記憶が詰まっていて(それは多くの悔恨と少しの懐かしさが入り混じったものです)、聴くとギュッと胸が締め付けられます。この青春の胸の苦しくなる記憶とは一体何だろうとふと考えることがあります。次のショーペンハウエル寸鉄人を刺す言葉がちょっとした手掛かりになるかも知れません。

<時間と、時間のうちなるまた時間のゆえの万物のはかなさとは、それによって、生きんとする意志―これは物自体として不滅のものである―に対してその努力の虚無性があらわにせられるゆえんの、形式にほかならない。―時間とは、それの故に万物が瞬間毎に我々の手もとからすべりぬけて無に帰せしめられるゆえんの当のものである。>(ショウペンハウエル、斎藤信治訳「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」より)

 これは、アルバン・ベルク四重奏団による<弦楽四重奏曲第1番 作品18の1>の第2楽章です。