ベートーヴェン<ピアノソナタ第32番、作品111>第2楽章―晩年のベートーヴェンが辿りついた何ものにも捉われない薄明の中の無心


 3月4日、偶然NHKテレビの芸術劇場にチャンネルを合わせると、何と懐かしいことに、昨年10月にベルリンのフィルハーモニー室内楽ホールで聴いて以来のアンドラーシュ・シフの姿が目に入りました。今年2月来日時の演奏の放映です。あのときと全く同じような服装で、ベートーヴェンの後期ソナタを演奏していました。中でも最後のソナタ、第32番作品111が素晴らしいものでした。この曲の第2楽章アリエッタがひときわ強く心に響きました。あたかも黄泉の国から差し込む薄明の中に無心の境地で座しているような心地でした。



 それはベートーヴェンが晩年に到達した誰も窺い知ることの出来ない、神韻縹渺として自在な精神世界のほんのかすかな手触りだったのかも知れません。また、最近読んだジョセフ・コンラッドの「闇の奥」の新訳(黒原敏行訳、光文社文庫)の最後の場面、語り手である(そして、コンラッド自身を投影した西欧の眼でもある)マーロウの”瞑想にふける仏陀の姿勢で黙って座っている姿”とこのアリエッタはぴったりだなどと、とりとめのない妄想が湧き上がってきます。
 そうなると猛烈にこの曲が聴きたくなり、マウリツィオ・ポリーニ、イーヴ・ナット、アルトゥール・シュナーベル、ウィルヘルム・バックハウス、ウィルヘルム・ケンプ、ソロモン・カットナー、ワルターギーゼキング、フリードリッヒ・ウィルヘルム・シュヌアー、フリードリッヒ・グルダグレン・グールド、アルフレート・ブレンデルという手に入る様々な音源を総動員して立て続けに聴き、併せて昨年ライブで聴いたクリスティアン・ツィメルマンの演奏を思い出し、それぞれさすがと感嘆した次第です。誰彼の演奏の良し悪しではなく、この曲の持つ捉え難さと奥深さをつくづくと味わうこととなりました。
 その中では、今まであまり聴くことのなかったイーヴ・ナットや、ほとんど初めてと言っていいソロモン・カットナーの古い演奏が逆に新鮮で、強い共感を覚えました。いずれも品格のある、優美さが心に沁み入るような演奏です。特にナットの孤独な哲学者の風貌を思わせる演奏は、この曲の一つのの高みを究めているような気がします。
 また、精緻な曲作りと微動だにしないテクニック、そして内的エネルギーの燃焼の凄まじさということではポリーニに軍配を上げたくなりますし、グールドの、余計なものをすっかり削ぎ落とした、修行僧の勤行のような集中力の高い演奏も捨て切れません。
 さて、その昔NHK/FMの「クラシック・リクエスト」という音楽番組で、解説のピアニストの清水和音氏が推薦していたシュヌアーの演奏も素晴らしいものです。清水氏はこの番組で、作品111について様々面白く語っていますが、このベートーヴェンが最後に到達したこの作品の高みに達している演奏は皆無である、と断言しています。この時エアチェックしたテープを今でも時々聴きますが、この清水氏の話の内容があまりに面白いので、テープを起こして少し再現してみます。
清水「ピアノをずーっと弾いていて手ごたえみたいなものが最も強い音楽です。(これは後期の5曲について言及しています。)」
清水「誰のを聴いても下手くそだというのが実感ですね。誰もこのレヴェルに到達していないし、それなりに立派な演奏もあるが、結局ベートーヴェンの考え出した高い次元に演奏家はまだ届いていない・・・」
司会者ー高みに到達していない?
清水「とてもじゃないけど全く無理で・・」
清水「演奏が良いのではなくて曲が凄い、それだけは保証できる。」
司会者ーリヒテルバックハウスの演奏をというリスナーからのお便りがきています。
清水「リヒテルはまあまあでしょう。バックハウスは何故か素人と評論家には人気がある。プロのピアニストが良くないというバックハウスブレンデルが一番評価が高いという、まあ、おかしな現象でしょうね。これは大きな声で僕らが叫ばないといけないと思う不思議な部分・・」
 そして、シュヌアーの演奏を選んだことについては、
「この人のが一番ましでしょうね。ベートーヴェンの音楽という意味でも一番ましだと思います。良い演奏とは言わないの、何でかと言ったら、良い演奏ないから。」
 清水氏の解説は、歯に衣着せず言いたい放題という感じで、これが他の評論家などからは絶対に聴くことのできないプロの演奏家の本音なのかも知れません。 
 古い演奏の音源の多くは「クラシックmp3無料ダウンロード著作権切れパブリックドメイン歴史的録音フリー素材の視聴、試聴」というweb siteからパソコン上のiTunesにダウンロードして聴いたものです。このサイトはまさしく宝の山です。

 ベートーヴェンの作品111のソナタをめぐっては、トーマス・マンの『ファウスト博士』の第8章の、いわゆる<クレッチュマル講演>が有名です。マンは大作家の中では最も音楽に造詣が深く、この部分を書くに際し、近所に住んでいたテオドール・アドルノから示唆を受けたと言われています。
 ヴェンデル・クレッチュマルという登場人物については、一体モデルがいるのか、いるとすればそれは誰か、などと従来より論議の的になっています。ハンス・ヘルマン・ヴェツラーという作曲家であるという説が有力ですが、それも確かではありません。まあこんなことは作品の本質には関係のないことで、あれこれ詮索するのが商売の学者先生にお任せしておきましょう。
 この章にはクレッチュマルが行った4つの講演について書かれており、その最初のものがベートーヴェンの作品111のソナタについての講演なのです。主な論点は<なぜベートーヴェンはピアノ・ソナタ作品111に第3楽章を書かなかったか>ということですが、作中でクレッチュマルはこう述べています。
―「この問題にみずから解答を与えるには」と彼は言った。「われわれはこの作品をただ聞きさえすればよかったのであろう。第三楽章だって?あんなふうに別れたあとで、またなにかはじまるというのか?あんなふうに離れたあとで、またなにかが戻ってくるというのか!いや、ありえないことである!奏鳴曲は第二楽章で、あの途方もない第二楽章でおわりを告げた。」
 なお、詳細な分析についてはネットで読める後記の2つの論文を参照して下さい。
 ただ、この章のクレッチュマルの講演の中で、少し気になる言葉があったのでここに記しておきます。
―「実際、音楽はあらゆる芸術のうちでもっとも精神的な芸術である。」
 音楽と精神性を結びつけるのはドイツの音楽に特有のものと思います。イタリア音楽やフランス音楽やスペイン音楽に対しては、こうした考え方では違和感が残ります。もっと感覚的な楽しみの要素が強いと思います。感覚的ということは呪術的なことにつながります。音楽の発生の過程から考えて、在り方としては恐らく後者の方が当たり前なのでしょう。精神的なものを求め、襟を正して聴くドイツの音楽の方が特殊なのだと思います。
森川俊夫(一橋大学機関リポジトリ)「『ファウスト博士』におけるクレッチュマル講演について」
杉村涼子(京都産業大学論集)「『ファウスト博士』におけるヴェンデル・クレッチュマルの章について」