インテルメッツォ (5) (ちょっとひと休み) 音楽を聴くのをちょっとひとやすみして・・・<読書><落語><能>そして<論語>                                                      

 このところ音楽を全く聴いていません。2月13日に、ブルガルディエン=シュタイアーのコンサートに行って以来、音楽CDからは全く遠ざかったままです。ときどきこうした時期が訪れます。棚に並んだ音楽のCDの列を眺めていても、今はさっぱり気持ちがそそられません。
 その間、川上弘美の「真鶴」を読み直し、「ヴォツェック」について書いた際読んだビューヒナーの「レンツ」との共通点に思い及び、「レンツ」を読み返しあらためて感嘆してみたり、志ん生圓生などの落語のCDを聴いて笑って日を過ごしています。
読書― 
 まず、「真鶴」と「レンツ」の共通点は、主人公の病的な視点から書かれていることです。病気とは<統合失調症>のことです。勿論ビューヒナーがこの短編を書いたのは(1836年)、この病気をフランスの精神科医ベネディクト・モレルが史上初めて<早発性痴呆>と公的に記述した1852年よりも16年も前のことです。その後エミール・クレペリンなどの著書でこの名前が現れたのち、1911年にスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが<Dementia Praecox早発性痴呆>を<Schizophrenie精神分裂病>と改名しました。<精神分裂病>が<統合失調症>に変わったのは、日本精神神経学会に対する全家連の改名の要望が実現して、2002年に厚生労働省が正式にこの名称の使用を認めたときからです。

「真鶴」では主人公がやや回復に向い始めているように感じるのに対し、歴史上の人物でもある「レンツ」では主人公の病気が次第に進行していく過程が描かれ、美しい自然描写を背景として、精神の闇が次第に深まっていく様子が克明であるだけに、運命の残酷さをひしひしと感じます。この物語が終わったところから10年後にレンツはロシアの街(モスクワ)の路上で客死しています。
 作品の出来栄えについては比較しても仕方ありませんが、それにしても「レンツ」は読めば読むほどただ感嘆するしかない傑作です。更に「ダントンの死」「ヴォツェック」と読み進めば、僅か23、4歳でこれだけ時代を超越した傑作をものしたビューヒナーとは、まさしく天才であることが分かります。この作家であり自然科学者でもある人物の全貌が知りたくなり、webの「本と文化の街 スーパー源氏」を通して、河出書房新社で1970年に刊行された「ゲオルグビューヒナー全集」全一巻(中古)を手に入れました。今はここに収録された多くの書簡、前記の作品以外の詩や文章、ハンス.E.ノサックを初めとするゲオルグビューヒナー賞受賞者たちの受賞記念のスピーチなどをゆっくりと読みつつあります。
「真鶴」は、初期の「蛇を踏む」と比較すると、川上弘美独特の変身(あるいは幻視・妄想)の物語が、鶴の恩返しに似た(それも逆の)設定から、世阿弥の夢幻能の世界(文春文庫の三浦雅士の解説)にまで熟成しているように読めます。また、<認知症>の病態にこれほど性的な側面を強く見て描写している洞察力にも”はっ”とさせられました。
落語― 
 さて落語に話題を変えると、子供の頃からの落語好きで、小学校の頃に「落語全集」を読みすぎて父親から取り上げられたほどです。当時は、桂文楽春風亭柳橋春風亭柳好、3代目三遊亭金馬桂三木助古今亭志ん生金原亭馬生柳家小さん三笑亭可楽など名人上手が綺羅星のごとく犇めいていました。当時は浪花節も好きで、2代目沢虎造、寿々木米若、浪花亭綾太郎、三門博、春日井梅鶯、玉川勝太郎、梅中軒鶯童、 東家浦太郎など多士済々の黄金時代でした。

 殆どをNHKのラジオ放送で聴いたものです。中でも金馬や柳橋のファンでした。三木助の「芝浜」も暮れ近くになるといつも放送され、ほろりとする心温まる人情話で、これも大好きでした。
 あらためて、志ん生(火焔太鼓・替り目)、圓生(妾馬・阿武松)、三木助(芝浜)、可楽(らくだ・二番煎じ)、文楽(寝床)、正蔵(天災)、小さん(青菜)と聴いてみて、久しぶりに楽しい思いをしました。志ん生は天才的な話芸でしたがほとんど酔っぱらったような破天荒なところがあって、滑舌にやや難がありましたがとにかく凄みを感じました。圓生は噺の流れの作り方が上手く、いつでも楽しめました。三木助も相変わらずしんみりと聴かせましたし、可楽も聴き込むと中毒になりそうな玄人好みの芸です。文楽は完璧な話芸を披露しますが、楽しさという点ではやや問題があり、堅苦しさが否めませんでした。
 この写真は、三遊亭圓生です。
能― 

 今日(2月27日)、NHKテレビの能楽鑑賞会で、観世流の当代である観世清和がシテ(武蔵坊弁慶)を務める能「安宅」を観ました。チャンネルを廻していて偶々観たので、論評するほどのものは持ち合わせませんが、登場人物の多さにはびっくりしました。また、いわゆる「直面」(ひためん)で、面が一切使用されていない能も初めて観ました。当代はすらりとした大変な美男子で、<絵になる>という表現にぴったりでした。また、ワキ(富樫某)はご存じ現在の能楽ワキ方の至宝とも言える宝生閑で、この人の八面六臂の活躍ぶりには脱帽です。宝生流のみならず何流でも関係がないようです。アイ(強力)を狂言師山本東次郎が演じ、笛は一噌庸二、小鼓は大蔵源次郎、大鼓は亀井忠雄という名人上手がつとめています。楽器は実際の舞台では観客席から遠いのですが、そこはテレビの良いところで、楽器奏者の名人芸がアップで心行くまで拝見出来て大満足でした。あらためて能舞台における楽器の重要性(かけ声を含め)を認識したところです。
 上は「安宅」の舞台ですが、今日のテレビの舞台とは関係ありません・
論語 

 駆け足になりますが、最後に、今夜の風呂に浸かりながらの読書で(これは私の数少ない楽しみの一つです)、ぱらぱらめくって思わず唸った「論語」の言葉のいくつかを、現在の政府のお歴々に献呈したいと思います。
 昔の政治家を初めとする社会のリーダー、教養人は、必ず「論語」を学び、生きる糧(かて)としたものですが、今の政治家でこれを読んで血肉化している人はそう多くはないでしょう。
 伊藤仁斎の言う<最上至極宇宙第一の書>(「童子問」)は現代においても未だその価値を失っていないと思いますが。(以下、出典は金谷治訳注の岩波文庫本「論語」です。)


1、子の曰わく、古者、言これ出ださざるは、躬(み)の遠ばざるを恥じてなり。(巻第二 里仁第四)
 訳:先生が言われた、「昔の人がことばを〔軽々しく〕口にしなかったのは、実践がそれに追いつけないことを恥じたからだ。」
2、子の曰わく、君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。(巻第二 里仁第四)
 訳:先生が言われた、「君子は、口を重くして、実践につとめるようにありたいと望む。」
3、子の曰わく、焉んぞ侫を用いん。人に禦(あた)るに口給を以てすれば、屢〃人に憎まる。(巻第三 公治長第五)
 訳:・・・先生は言われた、「どうして弁の立つ必要があろう。口先の機転で人と応対しているのでは、人から憎まれがちなものだ。・・・」

喜多流能「竹雪」を観る―国立能楽堂にて


 2月18日(金)に職場の同僚3人と共に、国立能楽堂にて、定例公演の狂言「惣八」と、喜多流能「竹雪」を観ました。(今回は狂言についての言及は省略します。)
「竹雪」は曲目としては稀曲であり、現在ではシテ五流の中でも喜多流宝生流でのみで、それもまれにしか上演されない演目です。(金剛流では廃曲になったと「能・狂言事典」には記されていましたが、「国立能楽堂」第330号の解説では廃曲にしていないと書いてあります?)
 シテは友枝昭世などとともに喜多流の重鎮である香川靖嗣で、昨年観た梅若玄祥の堂々たる風格とはまた違って、やや押えた繊細でありながら存在感のある演技で、内省的な趣がありました。それは、香川師のキャラクターの他に、夢幻能と異なってシテが生きた人間を演ずる難しさから来る工夫が反映されているからでしょうか。
「竹雪」は前回に観た観世流梅若玄祥の「鵜飼」にくらべると、華やかさで劣りますが、きりりと締まった落ち着いた舞台で好印象を受けました。シテもあざとさは全くなく、むしろアイ(継母)の野村萬斎が(衣装も含め)一番目立ったほどでしたが、それでさえ至って控えめな演技でした。
「竹雪」は典型的な儀理能です。儀理能については西野春雄氏の説明が簡潔にして委曲を尽くしていますので下記に引用させていただきます。
「儀理能とは、劇的筋立てを第一義とする能であり、主として問答の積み重ねによって筋を展開させてゆく能、詰めどころ(=山場。例、親子再会)の不可欠な能、という事ができる。謡を聞かせ舞を見せることに比重を置く歌舞(風流)能に対立する能だ。」(法政大学国文学会「日本文学誌要」1968.06.29)
 世阿弥の「風姿花伝」にも儀理という言葉が、<文句の面白さ>とか<劇的筋>などを表わすものとして出てきます。(第五 奥義、第六 花修)

 稀曲ということもあって、今度の公演はどうしても事前に台本が手に入らず、会場で「喜多流稽古用完本」を買い求め、また前記の「国立能楽堂」第330号にも詞章(台本)が記載されてあったので、それらで筋を追いながらの観劇になりました。筋は大変分かりやすい、世界共通の<継子いじめ>でした。ただ、後場に登場した雪竹の作り物が、私の席からは正面の視界をやや遮ることになって、少々見づらかったのは残念でした。
 それにしても月若(子方)の友枝大風君の可愛さは特筆できます。たどたどしくも、しかし正確な台詞(セリフ)廻しには感嘆しました。また、月若が死んだあと、雪の中で長時間横たわる我慢強さにも、役柄とはいえ驚きました。
 継母に死へ追いやられた月若は、最後に唐突に「竹林の七賢」の威徳で息を吹き返しますが、これはいかにも取ってつけたようで、劇を少し弱くしているような気がします。
 喜多流では1996年に堂本正樹などが改訂した台本で上演されているとのことですが、今回もその台本に基づく再改訂版で上演されたと記されています。
 儀理能もそれなりに面白いのですが、能はやはり「夢幻能」に限ります。6月17日の国立能楽堂主催公演では、梅若玄祥が演じる二番目物の修羅能「通盛」が上演されますので、これは是非観たいと思っています。
 なお、昨年8月4日に国立能楽堂で観た狂言「月見座頭」で座頭を演じられた茂山千之丞師が、昨年12月4日に鬼籍に入られました。当日素晴らしい演技を披露して下さった茂山千之丞師のご逝去に対し心から哀悼の意を表したいと思います。
 
 この夜は帰りに新宿歌舞伎町の「さしあげ亭」という富山の魚などを食べさせる店で、共に観劇した同僚3人と一杯やりました。これがこの日一番楽しい時間でした。刺身も、串揚げも、焼き物もみなおいしく、料金もリーズナブルでとても素敵な店です。
 そう言えば、ここは昨年の6月11日に、娘が翌月からドイツへ遊学するので壮行会を兼ねて食事をした店でした。
 次回の観劇の帰りには、同僚たちと新大久保の「おんどる」か「ハンヤン」あたりで韓国料理を食べたいと思っています。
(今回は、音楽とはあまり関係ないのが心苦しいのですが・・・。)

クリストフ・ブルガルディエン&アンドレアス・シュタイアー リート・デュオ・リサイタル <所沢ミューズ>にて


 2月12日(日曜日)「所沢ミューズ」で標記のリサイタルが行われました。寒さも少し緩んだ昼下り、真っ青な空の下を期待を胸に所沢ミューズへ向かいました。午後3時の開演です。このリサイタルのS席が、3,500円と言うのは信じられない安さです。左は、公演のあった中ホール”マーキーホール”です。
 クリストフ・ブルガルディエンは2009年に所沢ミューズでリサイタルを行い、「冬の旅」を歌ったのを聴きましたから、私にとっては2度目となります。(所沢ミューズにとっては2003年の公演を含め3度目の登場になります。)今回の伴奏は、何とフォルテピアノチェンバロの名手アンドレアス・シュタイアーとは驚きです。ただ、事情で、当初予定していたフォルテピアノではなく、通常のピアノ(所沢ミューズ所有のスタインウェイ)になったことが大変残念でした。乾燥続きで、楽器が想定以上に不安定という理由でしたので、やむをえないものでした。

 プログラムは下記のとおりです。
シューマン:ロマンスとバラード第1集 作品45 アイヒェンドルフ:詞:2曲/ハイネ詞:1曲
シューマン:5つの歌曲 作品40 アンデルセン詞:4曲/シャミッソー詞:1曲
シューベルト:「白鳥の歌」D957より6つの歌曲 作品40(ハイネ:詞)
 アトラス/彼女の姿/漁師の娘/都会/海辺で/ドッペルゲンガー
シューマン:「詩人の恋」作品48(ハイネ:詞)
 シューマンの歌に挟まれたシューベルトを聴いたときは、異質な、ぽっかりと空いた深淵を覗きこむような目眩めきを覚えました。
 シューベルト弦楽四重奏曲<死と乙女>や交響曲第8番<未完成>あるいは「白鳥の歌」など、これほど美しくもデモーニッシュな曲が他にあるでしょうか。シューベルトの果てしなく暗く美しい楽想!<死と乙女>は最近ではカルミナ弦楽四重奏団の演奏が出色でした。
 いや、今回のリサイタルの主役はシューマンでした。3曲のアンコールもシューマンだったほどです。
 さすがに歌い込まれた「詩人の恋」は完璧だったと思います。知・情・意全てそろった歌いっぷりには身も心もシューマンの世界に沈潜しました。 
 ハイネの「歌の本」から選んだ16曲の歌は、ピアノの比重が極めて大きく、歌が終わってもピアノが延々と続く曲も多くあります。テノールでは、過去にフリッツ・ヴンダーリッヒの甘い歌声が知られていますが、ブルガルディエンの歌唱は成程と思わせる詩の解釈、そして揺るぎなく、知的にして極めて落ち着いた、しかもリリックな歌い方が好もしく思われました。シューマンが深くハイネの詩を理解した曲作りをしていることも、対訳を読んでみるとあらためてよく分かります。
 なお、ブルガルディエンはテノールといっても声の質はバリトンに近く、ドイツ・リートにはとても打って付けと感じました。
 シャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトー以来「詩人の恋」の名唱は目白押しですが、ブルガルディエン=シュタイアーもきっとその仲間入りをすることでしょう。
(ブルガルディエンの好敵手、イアン・ボストリッジのリサイタルが3月31日に東京オペラシティ コンサートホールで行われるので聴きに行きます。プログラムはシューベルトの「白鳥の歌」です。イギリス人のせいか彼のドイツ語はあまりドイツ語らしくないのですが、陰影に富んだ、感情移入の上手い歌唱を、ヘレヴェッヘ指揮の「マタイ受難曲」のエヴァンゲリスト役でいつも楽しんでいます。ブルガルディエンのようなドイツ・リートの正統派とは少し違いますが、どんな風に歌うか楽しみにしています。)
 ブルガルディエンは、私の愛聴しているグスタフ・レオンハルト指揮の「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストで真価を発揮していましたが、リートもまた負けずにすばらしいものでした。どちらも、多くの名歌手と比較しても、声の美しさ、透徹した解釈など、決して引けをとりません。


 アンドレアス・シュタイアーは、フォルテピアノでなくて本当に残念でした。しかし、そう贅沢も言えません。彼がピアノ伴奏したこと自体が大変なごちそうであり、「詩人の恋」のようなピアノの比重の大きい曲集にはたまらない魅力を発揮してくれたからです。
 リサイタルが終わって、「白鳥の歌」のCDにお二人にサインをして貰いました。これだけの大スターがいやな顔ひとつせず、にこやかに、押しかけた聴衆のサインを求める列にいつまでも応えていた姿には心底心打たれました。
 サインを行っている二人の姿を写真に撮りました。左がシュタイアーで、右がブルガルデイエンです。写真で見ても二人の真摯な人柄がよく分かります。


 you tubeで二人のリサイタルで共演している姿を見ることができます。下記の映像の曲はショパンの歌曲"Smutna rzeka"(The Sad River)です。

バルトークあれこれ(2)弦楽四重奏曲は面白すぎ?

 大学時代、地元(新潟)のアメリカ文化センターで借りたジュリアード弦楽四重奏団の演奏するバルトーク弦楽四重奏曲第4番のLPを聴いて稲妻に打たれたような衝撃を受けたことを思い出します。初めてまともに向き合って聴いたこの手の曲は、当時の私にはいささか毒が強すぎたようです。恐らく1962年ころのことですから、ジュリアード弦楽四重奏団の最初の全集、1950年のモノーラル盤に違いありません。
 その時借りたのは第4番だけでなく、3番も聴いた記憶がかすかにありますし、第6番も、当時書いた拙い詩にこの曲をテーマにしたものがあるから多分一緒に借りたのでしょう。恥ずかしいのですが、少し引用してみます。おこがましくも、ヨーロッパを去らねばならなかったバルトークの境遇に当時の自分の心境を重ねて表現してみたかったのかも知れません。(何という浅はかな!)
  流 亡
    ーバルトーク「第六弦楽四重奏曲」に
  ・・・・・
  ・・・・・
  絶えず「現在」という美しい故郷(ふるさと)に別れを告げ
  さようなら二度と会うことはない
  灰色の岸壁に背を向け
  やがて過ぎ去るであろう未来をみつめる
  そしてその先 水平線の彼方
  過ぎ去りえない死へ 泡立つ
  太陽の眩しい乱反射の中で
  盲いつつ辿る漕役囚
  一筋のなめくじの跡でしかない精神の軌跡を
  如何に審こう
       詩集『お委せ料理店』より
  20世紀の音楽の中では、このバルトークの6つの弦楽四重奏曲ほど千変万化の面白さに富んだ室内楽曲は他に知りません。中でも第4番以降の3曲が滅法面白く、聴いていて全く退屈することがありません。ここにはバルトークが長年心血を注いで採集分析してきた民俗音楽研究の精華があり、独特の和声やリズムとマージナルな地政学的雰囲気などと渾然一体となった天才的な曲想が奔出し、かつてない豪奢な仕上がり、いや贅沢なご馳走となっています。
 どの四重奏団の演奏もそれぞれに面白いのですが、大まかな傾向としては、ジュリアード弦楽四重奏団(音響のダイナミズムを徹底的に追求している純粋音楽的演奏)、アルバン・ベルク弦楽四重奏団西洋音楽の歴史と伝統を踏まえた派手さはないが曲の内奥に迫らんとする堂々たる演奏)、ハンガリー弦楽四重奏団(第1ヴァイオリンがイェネー・フバイの弟子であるゾルターン・セーケイということで分かるように、バルトークを最も理解していると思われる演奏家による最もマジャールの血を感じさせる、しかもニュアンスに富んだ演奏。)タカーチ弦楽四重奏団(1、と3、の性格を共に帯びた、しかも極めて精彩と表出力に富んだ演奏)に分かれます。
 個人的にはジュリアード四重奏団の1963年の演奏を最も好みますが、他の演奏もそれに負けない独特の魅力があります。つまりバルトーク弦楽四重奏曲とは、細かいことを四の五の言わなければどの団体が演奏しても面白いという超弩級の曲なのです。(初めての体験だったジュリアード四重奏団の1950年のモノーラル盤も、鋭利な刃物のような鋭さと背筋のぴんと通った厳しい姿勢に、いまだに強く心を魅かれます。)
    タカーチ弦楽四重奏団
 あえて難癖をつけるとすれば、面白すぎることです。(?)この面白さの正体は一体何だろうと考えてしまいます。この面白さは、腕っこきの演奏家にとっては曲が演奏伎倆のアッピールに適していることと無縁ではないでしょう。この面白さに魅かれてか、今日では数え切れないくらいの多くの演奏団体がこぞってバルトーク弦楽四重奏曲を演奏し、CDを発売し、you tubeにアップロードしています。バルトークは技術的にクリアーさえできれば、それなりに聴ける演奏になります。ここがベートーヴェンと大きく異なるところです。随所に腕の振るいどころがあり、中には極めてアクロバティックな演奏も見受けられます。バルトーク・サーカスとでも命名したくなります。
 比較考量するために、ベートーヴェンの作品131番の弦楽四重奏曲を、ブダペスト(1958年〜)、スメタナ(1965年)、グァルネリ、ラサール、ヴェーグ(1952年)、アルバン・ベルク(1978年〜)の各弦楽四重奏団のCDで立て続けに聴いてみました。
 それで分かったことは、バルトーク弦楽四重奏曲がいかに面白かろうと、ベートーヴェンが晩年に達した精神の高みには残念ながら及ばず、いかにしても越え難い壁が存在するということです。(これは何もバルトークに限った事ではありません。なお、ベートーヴェン以後で、独自の道筋を辿ってこの壁に最も迫っていたのはシューベルトだと思います。)
 なお上記のベートーヴェンの演奏の中では、やはりアルバン・ベルク四重奏団の演奏の、間然とするところのない緻密な構成力、ベートーヴェンのロゴスに迫らんとする眼光紙背に徹した読みの深さ、しかも気品と尊厳さのみなぎった名演にあらためて感銘を受けた次第です。
 ところで、バルトークの6曲の弦楽四重奏曲の中では、やはり第5番が最も充実していて完成度が高いと思いますが、第4番に感じられる不条理さ、酷薄さにも魅かれるものが多く、この2曲が一番聴く回数が多くなります。
 ポール・グリフィスの名著『バルトーク』(和田旦訳:泰流社、1986年10月、左下写真)の中から、弦楽四重奏曲第4番と第5番に言及している部分の一部を引用してみます。
第4番 
 ポール・グリフィスは、「『第四弦楽四重奏曲』は極度の明確さで五つの楽章に分割されており、鏡像的対称で配列されている・・・」と述べた上で、
「『第四弦楽四重奏曲』は『第三弦楽四重奏曲』のすぐあとに作曲されたにもかかわらず、これがきわめて異なる種類の作品であることは明白であるはずだ。しかしながらその相違は、スタイルと言うよりもむしろ形式の相違である。和声の点でこの新しい四重奏曲は、前作とまったく同じようにいら立たしいものであり、準打楽器的な弦楽器の扱いの点でも、前作に劣らず非妥協的である。この作品は『第三弦楽四重奏曲』と同じように、中間楽章を除けばきわめてポリフォニー的な作品でもある。実際この曲の方がカノンと転回対位法でいっそう激しく息づいており、こうした厳格な手法が顕著なさまは、この四重奏曲を『第三番』とはっきり区別する目立った形式的明快さと協力している。それはあたかも、いくぶん無定形の形式にたいして責任がある前作品の荒々しい衝突が、いまや考えうる最も強靭な構造に向けられたかのようである。」
(転回対位法は、曲全体を上下に転回することが可能な技術です。Webの<フーガの技法研究所>の記述によれば、譜面が鏡映しのように見え、具体的にはバッハのフーガの技法のContrapunctus12などに見られるそうです。)
 1923年に発表されたバルトークの自伝*は、当時の政治状況や、彼が心血を注いだ民俗音楽研究に対する音楽界の冷淡さをなど世の不条理を嘆く悲痛な調子に満ちていますが、1928年に完成された第4番にこうした心の置き方が強く反映されているのは当然かと思います。この曲はまるで世界崩壊の序曲のような、人の心を不安に陥れるような不協和音と多様に変化する弦楽器使用(バルトーク・ピッツィカートやグリッサンドなど)による神経を苛立たせる旋律とリズムに支配されています。(*『バルトーク音楽論集』岩崎肇訳:御茶ノ水書房1988年5月に収録。この自伝は、1923年にブダペストの”Az Est”という新聞社から刊行された文学、美術、科学についての家庭辞典に発表された。右下写真)
 
第5番
「『第四弦楽四重奏曲』と比較した場合の『第五弦楽四重奏曲』の相対的な和声的・形式的明快さは、特別な効果が比較的欠如していることと結びついている。バルトーク・ピッツィカートやコル・レーニョ、スル・ポンティチェロ、グリッサンド、フラジョレットが侵入してくることは、ずっと数が少ない。しかしながら『第五弦楽四重奏曲』は単調な作品どころではない。スケルツォの中心―それゆえ作品全体の中心―にくるトリオは驚くべき着想であり、単純な民謡の調べが持続低音ときわめて急速なオスティナートを背景としてきかれ、最終的にこれにその転回と長二度の変奏(ドウブル)が加えられる。そしてここで厳格なポリフォニーは分解するとテクスチャーの効果を示すが、それはリゲティの音楽を予期しているようだ。」
(最初出てくるバルトーク・ピッツィカート(bartok pizz.)を初めとする横文字の羅列はみなヴァイオリンなどの特殊奏法をふくむ演奏技法です。トリオは、この場合スケルツォの中間部を言います。オスティナートは英語のobstinateに相当し”執拗な”という意味合いから、ある種のリズムなどの音楽的パターンを執拗に反復することを指しています。とくに低音主題を反復演奏する場合に多く用られます。テクスチャーはもとは織物の織り方とか感触といった意味から、主に音の響きに関連して漠然と用いられる音楽用語で、楽曲のもとになる音の組合せ具合、あるいは音の組合せから生じる総合的な印象を言います。−分かりにくいですね。)
 また「・・・『第五弦楽四重奏曲』は、三十年間にわたり彼の頭にたえず浮かんでいた制御できない楽想をとらえていることでバルトークの究極的な業績である。」とも述べています。
 ここで、イェール大学のレジデント・クァルテットとして売り出し中のジャスパー弦楽四重奏団による<弦楽四重奏曲第4番>第1楽章(左下)と、ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の<弦楽四重奏曲第5番>第1楽章(右下)とを聴いてみます。アメリカの新旧の弦楽四重奏団による演奏です。なお、ジャスパー弦楽重奏団の第2ヴァイオリンは、日本人の丹羽紗絵さんです。時代は確実に移ろいつつあります。こうしたジャスパー弦楽四重奏団などの演奏などを聴いていると、今の若い世代は、私たち古い世代が二十世紀において経験してきた様々な悲惨な歴史的出来事のせいで、ずっとその影響下にある”この世は酷薄さと理不尽さに満ちているという世界観”さらには”諸行無常観照”などとはもはや無縁の人たちなのだという気がします。
     

バルトークあれこれ(1)民俗音楽研究家としてのバルトーク

 
伊東信宏氏の著書『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』は、<はじめに>にあるとおり、
「作曲家バルトークの伝記ではない。・・・ここで目指しているのは、バルトークという音楽家の六十四年にわたる生涯を、民俗音楽の研究活動という側面から見直すことである。」
という前例の尠ない、しかも難しい視点からの重要な作業の成果といえます。
 伊東氏のこの著書を読み進むにつれ感嘆したのは、先ずはその達意の文章です。民俗音楽についての極めて専門的な分野の説明が私のような素人にも理解可能な明晰な文章(その背後には論理的で明晰な頭脳)で記述されています。
 次に感じたのは記述のバックボーンとなっている歴史的なパースペクティブの確かさです。オ−ストリア=ハンガリー帝国の解体から第一次世界大戦、そしてナチスの勃興という十九世紀から二十世紀にかけての激動の時代の政治的、そしてそれに翻弄されてきた文化的な背景を十二分に読みこんで、バルトークの民謡収集家としての生涯を描き切っていると思います。
 さて伊東氏は、英語のFolkに相当する日本語として“民俗”を当てはめていますから、バルトークの民謡収集とは、伊東氏の言う“民俗音楽”の収集のことです。
 では、このようなコンテクストの中における“民俗”とは一体どのような意味なのでしょうか。また、どのような歴史的制約が課せられているのでしょうか。それについては、第一章の冒頭に引用されているアーノルド・シェーンベルクの文章がヒントを与えてくれます。これはこの本の論述全体を貫く通奏低音のような大切な文章なので、煩を厭わず以下に記してみます。
第一次世界大戦後の平和のおかげで、多くの国々が政治的独立を果たしたが、その中には文化的にはまだ独立の機が熟していない国々も含まれていた。にもかかわらず、人口600万〜1000万人程度の小国も、文化的単位ないし国家と見なされることを願い、その国の特色が応用美術、織物、陶芸、絵画、歌、演劇、さらには作曲といった多くの点で表現されねばならないという考えに取り憑かれている。もちろん、Xという町では、そこから3000フィート隔たったYという町とはかなり異なる個性的習慣が育っているとはいえるかもしれない。しかしその両方の町がひろく認められることを求め、『陽のあたる場所』を得ようとして自分たちの特産品を高く売りつけるチャンスを窺っている、というのが現状だ。彼らのもっともらしい理想の背後に見え隠れする本心とは、このような経済的な損得勘定なのである。」A・シェーンベルク『民謡に基づく交響曲
 ここには、1874年に、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれたシェーンベルクの文化的矜持が強く表れていて、やや辟易しますが、伊東氏は現在のわれわれが当たり前のものとして教え込まれてきた「文化的相対主義」の原則から見ると、「文化的に成熟しているかいないか」という価値判断はタブーであり、シェーンベルクのこの表現はそのタブー侵犯であるとしています。(「文化的相対主義」とは、最大公約数的に言えば、“全ての文化に優劣はなく、平等に尊ばれるべきとする態度”のこと。)
 それはさておき、シェーンベルクのいう人口600万〜1000万の国とは、具体的には多分オーストリア=ハンガリー帝国の周縁国家、すなわちチェコスロヴァキアボヘミア、スロヴァキア)、帝国解体後のハンガリーハンガリーから分離したルーマニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナセルビア、それに北欧の3カ国などを指すものと思われます。(ハンガリーは帝国解体後は分断され、周縁国家の一つとなってしまったのです。)
 すなわち民俗音楽とはこれら(政治的にも、文化的にも)周縁国の民俗特有の音楽のことを言うのでしょう。バッハ、ベートーヴェンモーツァルトシューベルトなどを生み出したドイツ・オーストリアの音楽が、民俗的な視点で語られることはありません。シェーンベルクの発言には、まるでウィーンの皇帝が周縁国を睨め付けるような傲岸不遜さが感じられます。シェーンベルクがもしこれらの国々を十把一絡げに裁断しているだとすれば、「文化的相対主義」を持ち出すまでもなく、単に雑駁過ぎるのでなければ、為にする議論と言わざるを得ません。

 シェーンベルクのこの言葉は、彼の”Style and idea : Selected writings of Arnold Schoenberg”という書物(英訳)のPART3 FOLK-MUSIC AND NATIONALISMの中の”FOLKLORISTIC SYMPHONIES”の冒頭にあります。
なおこの書物は、下記のとおり<Googleブックス>で読むことができます。
FOLKLORISTIC SYMPHONIES
 そのシェーンベルク第二次世界大戦中に、ナチスユダヤ人迫害の手を逃れてアメリカに移住しています。因果は巡るとでも言えるかも知れません。
 さて、バルトークが生まれたのは、シェーンベルクから文化的周縁国扱いされた今はルーマニア領のナジュセントミクローシュです。今であれば、バルトークルーマニア人作曲家と呼ばれることでしょう。
 それにも関わらず(伊東氏によれば)バルトークは、ルーマニア人の音楽についての王立音楽院院長のフバーイとの論争で、ルーマニアに対するハンガリーの文化的優越性について差別的言辞を弄しているのです。こうなれば目糞鼻糞を嗤(わら)うのたぐいで、人間の救いようのない本質を垣間見る思いがして暗澹とせざるを得ません。
 伊東氏の本から、その部分を引用してみます。
「・・・そしてこの論文*は、このようなルーマニア民俗音楽を組織的に研究しようとする者が一人も現れなかったのに対し、ハンガリー人の方が、このハンガリーの観点からも極めて重要な研究を企てねばならなかったことを示している。これこそわれわれの文化的優越性の証しではないのか。」
(*バルトークの「フニャド県のルーマニア人による音楽的方言」とういう1914年発表のハンガリー語の論文。論争になったのはその独訳)
 かつて、日本人は白人から黄色人種として(特に米国人からは”ジャップ”と言われて)侮蔑されながらも、朝鮮半島出身者(「チョーセン」と呼んだ)や被差別部落出身者(「穢多」とか「四つ」と呼んだ)を差別してきた事実があります。私たち人間は差別という食物連鎖の輪のどこかに常に位置付けられている悲しい生き物なのかも知れません。
 また、国家間であれ、民族間であれ、人種間であれ、宗教間であれ、人間社会における差別の構造(あるいは少なくとも他者への侮蔑的感情や意識)がこれからも無くなることは考えられず、われわれ人類の痼疾として、人間文明社会で継起する不条理としか思えない一連の憎悪の連鎖の源泉となり、またその社会を構成している人々の意識の中に澱(おり)のように沈潜し、癕(よう)さながらに根を張っていることを痛感せざるをえません。
 ここでは触れませんが、宗教的人種的差別としては、今でも根強く残る「ユダヤ人」差別があります。この場合の宗教とは主にローマ・カソリックですが、ルター派にもユダヤ人差別があることは、以前言及したとおりです。反面、ユダヤ教にも強い選民意識があるのも事実です。
 では、バルトークの民俗音楽収集の成果から、自らピアノ演奏で<ルーマニア民俗舞曲>(左下)と独唱付きの<5つのハンガリー民謡>(右下)の一部を聴いてみます。
 

人間は深い淵だーアルバン・ベルク<ヴォツェック>より

Der Mensch ist ein Abgrund,es schwindelt
Einem,wenn man hinunterschaut....
mich schwindelt...
 人間は深い淵だ、目がまわる
 その奥底を覗くと
 目がまわる
(<ヴォツェック>第2幕第3場)
 これはヴォツェックがマリーと口論の果てに絶望に陥り、己の来し方の体験の全てを賭けて魂の根源から絞り出した彼の究極の人間観を示した独白です。ヴォツェックはマリーと鼓手長との関係に疑惑を抱き、絶望しつつマリーを問い詰めますが、マリーはそれに答えず、執拗に迫るヴォツェックの手から逃げ去ります。その後にこの独白が続きます。ここは、ヴォツェックが人間の本性の計り知れない冷酷さと不条理さに怖気をふるう、このオペラの重要な場面のひとつとなっています。
 ゲオルグビューヒナーの断章劇を原作とするアルバン・ベルクのオペラ<ヴォツェック>は、20世紀で最も革新的で、しかも現代オペラ史のターニング・ポイトとなった天才作曲家の手になる不朽の名作です。
 この作品は、18世紀から19世紀にかけてオペラ界を席巻したベルカント・オペラやグランド・オペラ、あるいは英雄たちの登場するワグナーの楽劇などとは全く別次元の、実際に起こった市井の一犯罪者の殺人事件を題材とし、人間を取り巻く不条理なな社会状況やそこで織りなされる赤裸々な人間感情ー貧困、傲慢、冷酷、権力への従属、屈辱、好色、嫉妬、恐怖、絶望、殺人、自殺ーを主題に、これまで見ることもなかった極めて人間臭い劇であるのは周知のとおりです。
 23歳4ケ月で夭折したビューヒナーの、いわゆる断章劇<ヴォツェック>は、一見、(内縁の)妻を寝とられ嫉妬に狂い絶望した男が、その妻を殺害するという単純な情痴殺人に過ぎないように見えますが、それにしてはビューヒナーの劇は異様な状況と、違和感に満ちた背徳的な登場人物たちと異様な緊張感と絶望感に満ちています。

 左は岩波文庫から2006年に出版されたこの作品の岩淵達治氏による優れた翻訳本です。他に<レンツ>、<ダントンの死>と、委曲を尽くした解説と訳注を併せ、彗星のごとく時代を駆け抜けていった見者の風貌を帯びたこの作家の全貌に光を当てたもので、最近の岩波文庫の中では画期的な一点と言えます。
 この劇(オペラ)の底流にあるテーマは、実はこの時代の救われることのない下層民(いわゆる第四階級)の貧困です。マリーの密通も貧困に対する絶望が重要な引き金になっています。これは、今の日本の状況と重なっていると見るのは私の思いすごしでしょうか。貧乏ほど人の心を深く蝕み、人に深い絶望感を抱かせ、静かな狂気へと追いつめて行くものは他にありません。現在の日本でも国民の中に相当の数の貧困層が形成されようとしています。社会が二極化に向かって歩んでいることがいつか深刻かつ絶望的な社会不安の大きな原因になるような気がしてなりません。狡猾な官僚機構のコントロールの下、国民からの収奪機構と化している今の日本国家の愚かな政治家たちの右往左往する情けない姿からは、未来に見えるのは国民が陥る蟻地獄のような悲惨な状況だけです。
 ベルクのオペラのタイトルは"Wozzeck"<ヴォツェック>ですが、実はこのオペラの原作者であるゲオルグビューヒナーの主人公も、ビューヒナーがこの劇を書くもとになった歴史上の事件の犯罪者の名前も"Woyzeck"<ヴォイツェク>です。
 ベルクは当初、ビューヒナーの最初の著作集を刊行したカール・エミール・フランツォース版(1879年出版)をもとにこのオペラの台本を書いたと思われていました。フランツォースは、ビューヒナーの死後、判読不能の状態にあった原稿群を遺族から譲り受け、特殊な化学処理をしてようやくこの作品の復元をしたの功労者です。ただ、この版では判読困難な自筆草稿からタイトルを誤読し、"Wozzeck"となってしまったのです。その後の各版もこれを踏襲し、タイトルを"Woyzeck"と訂正したのは1920年のヴィトコフスキー版まで待たなければなりませんでした。
 ベルクが実際底本としたのは、新たな場面配列を行ったパウルランダウの著作全集をもとにした1913年のライプツィヒのインゼル社の単行本「ヴォツエックーレンツ、2編の断章」であったと言われています。(この本の現物は、現在オーストリア国立図書館に保管されているそうです。)
 ビューヒナーの作品の版の校異は、自筆草稿が未定稿で断章の配列も未整理のままであったため、調べるほどに、これはこれで大変面白いのですが、煩雑になるのでこの辺でやめます。
 1821年にライプツィヒで起きたヴォイツェク事件の裁判記録は消失し、残されたのはザクセン王室宮廷顧問官ヨハン・クリスティアン・アウグスト・クラールス博士の数種の精神鑑定書とそれに対する反論のみです。ビューヒナーもこれを知って、作劇に利用したものと思われます。
 この事件では当時殺人に対する責任能力をめぐって司法鑑定が何回も行われています。裁判所は精神鑑定医に命じたクラールス博士の精神鑑定診断書に基づき、被告の責任能力を認める第1次決定を下しました。その後、被告が時々常軌を逸した行動をとるという目撃証言に基づき、裁判所の命令で再度クラールス博士が詳細な精神鑑定を行い(2次鑑定)、精神錯乱を推定できるだけの新たな根拠はないということで、やはり責任能力は認められるという結論を出しています。
 そして、1824年8月27日にライプツィヒ市役所前広場でヴォイツェクの処刑が行われました。
 なお、当時の医学界でもヴォイツェクの責任能力をめぐっては、クラールスの鑑定書に反対し責任能力は認められないとする批判的見解もあって波紋が生じ、さまざな論争が繰り広げられています。
 精神鑑定をめぐっては、現代に至って事態はむしろ複雑化・混乱化に拍車がかかっており、鑑定のための制度やツールが乱立し、それぞれの拠って立つ立場によって見解が鋭く対立するケースが多く見られます。(例えば、ICDやDSMによる病気分類の仕方、診断基準の相違、巨大製薬会社の思惑などに影響されています。)
 劇作家であり、生理学・解剖学を専攻した医師でもあったビューヒナーがこの事件に関心を持ったであろうことは容易に推察されます。彼がクラールス鑑定書で欠落していた社会的な要因<人が最下層民として貧困に蝕まれ、社会から疎外されているという状況と犯罪との因果関係>に目を向けた結果この作品が生み出されたのかも知れません。何しろビューヒナーは、ドイツ革命思想の嚆矢ともなった「あばら屋に平和を!宮殿に戦争を!」のスローガンで有名な政治的パンフレット『ヘッセンの急使』の起草者として、大学時代から強い人権思想の洗礼を受けていたのですから。
 医師としての側面は、短編小説<レンツ>で、主人公の作家レンツの狂気(今で言う”統合失調症”か?)が深化していく過程を、第一次資料を駆使して詩的で幻想的な文章で、しかも克明に描き出している点によく表れています。
 また、登場人物の医者がヴォイツェクに向かって、
”ヴォイツェク、お前は精神錯乱だ。”
”ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱だ。”
と言うセリフがありますが、岩波文庫の岩淵達治氏の解説によれば、ドイツ文学史上このような医学術語が使用された最初の例だそうです。
 もしかしたらビューヒナーは、ヴォイツェクに責任能力ありとするクラールス博士の鑑定書に疑問を持ったのかもしれません。この作品の随所にヴォイツェクが被害妄想的な幻視、幻聴に襲われるシーンが出てきます。ビュヒナーはヴォイツェクが責任能力に疑問符の付く精神異常であることをほのめかそうとしたのではないでしょうか。

 オペラ<ヴォツェック>は、1951年のディミトリ・ミトロプーロスニューヨーク・フィル演奏会での録音(左上)が、1961年にコロンビアからLPで発売され、当時私も早速買い求めています。これをいまだに大切に保管しており、時折レコード盤に針を落として聴いています。ヴォツェックがマック・ハーレル、マリーがアイリーン・ファーレルで、モノラルですが現在でも良質な音で再現できます。(左上がそのレコードのジャケットです。)当時レコード化されたのはこの演奏が最初で画期的と言われ、いまだに十分鑑賞に堪えます。
 この頃(1961年代)、ベルクのレコードをいくつか買い求めています。よく分からないまでも、どこか魅かれるものがあったのでしょう。
 一つは、クリスチャン・フェラスのヴァイオリン、ジョルジュ・プレートル指揮のパリ音楽院管弦楽団の演奏による<ヴァイオリン協奏曲>と、これにピエール・バルビゼ(p)が加わっての<ピアノとヴァイオリンのための室内協奏曲>(東芝)です。二つ目はハンス・ロスバウト指揮の南西ドイツ放送交響楽団の演奏によるベルクの作品6の<管弦楽のための3つの小品>のほか、ウェーベルンストラヴィンスキーの曲も含んだウェストミンスターのレコードです。勿論今も手元にあります。
 <ヴォツェック>で現在愛聴しているのは、1965年にピエール・ブーレーズパリ・オペラ座管弦楽団を指揮し、ヴォツェックワルター・ベリー、マリーをイザベル・シュトラウスが演じたCD(右上)ですが、まだ40代初めのブーレーズが指揮するオーケストラが霊感に富む大胆で極めてテンションの高い演奏を展開していて、聴くほどに引き込まれる魅力を持っています。(右上)
 ビューヒナーでは25の断章であったものを、ベルクはこれを一部省略し、3幕で各5場面の型15場面に構成しています。その15の場面が、それぞれ絶対音楽の形式に従っているのです。例えば、第1幕第4場は”パッサカリア”で主題・変奏・コーダで構成され、また第2幕第1場は”ソナタ形式”により、提示部・展開部・再現部という構成になっています。
 これについては、ベルク自身が「ここの場面の小形式における完結性のみならず、各幕、ひいては作品全体の統一性も達成されねばなりません。周知のごとく数多くのばらばらで断片的な場面からなり立っているビューヒナーの<ヴォ(イ)ツェック>のような作品ではそれは全く不可能なことでした。」として、「私はこれを5場ずつ3つの幕にまとめ、すなわち呈示、急転(ペリペティ)、破局(カスタトロフ)の3部にはっきりと区分しました。」と述べています。ベルクはその結果の評価もいろいろ行っているのですが、詳細にわたるのでこれで打ち止めにします。(アルバン・ベルク「<ヴォツェック>のための講演」(1929)名作オペラ ブックス229〜230頁、音楽之友社
 <ヴォツェック>の舞台をyou tubeで少し覗いてみます。
 左下は、ブルーノ・マデルナ指揮、ハンブルク国立歌劇場での演奏(DVD化されたもの)で第2幕第3場、冒頭の「人間は深い淵だ」の場面。ヴォツェックがトニ・ブランケンハイム、マリーがセーナ・ユリナッチです。
平成26年8月24日)
ブルーノ・マデルナの演奏は、全曲を通したものがアップされ、部分的な場面の映像は亡くなりました。ここに全曲版を載せます。
 右下は、クラウディオ・アバドウィーン・フィルによる第3幕第2場と第3場で、第2場はマリー殺害の場面です。ヴォツェックはフランツ・グラントヘーバーで、マリーはヒルデガルト・ベーレンス。CDと同じ1987年の舞台です。このアバドの演奏も評価の高い演奏です。(途中、ちょっと音が途切れるところがあります、ご辛抱を。)
dai3ba
 そして最後、第3幕の第5場では、みなし児となったヴォツェックとマリーのの子供が、ほかの子供に”君の母ちゃんは死んだよ”といわれても、知ってか知らずか、木馬に乗って、無邪気に”はいどう、はいどう”と楽しそうに遊んでいる姿が胸を引き裂くような哀しみを誘います。
(この映像は、ブルーノ・マデルナの上記全曲版に含まれました。。)

エスピオナージュの系譜と、その舞台となった冷戦時代に翻弄され続けた作曲家ショスタコーヴィチの「森の歌」

 しばらくぶりに日本のエスピオナージュを読みました。第53回江戸川乱歩賞を受賞した曽根圭介の「沈底魚」(講談社文庫)です。文章がやや類型的なのと会話があまり上手いとは言えないので、始めのうちは読み続けられるか心配していましたが、やがて物語も快適に展開し始め、プロットに引きずられて一気に読了してしまいました。最後の方は粗筋だけになってしまった感じがしましたが、それなりに面白く読みました。
 エスピオナージュ、いわゆるスパイ小説は、お国柄や冷戦時代における国際的地位や地政学上の問題、あるいはまともな諜報機関の不在から、日本ではあまり盛んとは言えません。作家では中薗英輔(「密書」)や結城昌治(「ゴメスの名はゴメス」)などが、最近では麻生幾などが先ず頭に浮かびますが、日本のミステリーの系譜の中では大した位置は占めていません。エスピオナージュの本場は、何と言ってもイギリスです。
 エスピオナージュに最も豊饒な土壌を提供してきたのはスターリン治下のソ連で、このジャンルの傑作の殆どがMI6対KGB(まれにCIA対KGBモサドKGBなど)の諜報戦という筋立てになっています。それ以前ははナチス・ドイツが、以後は中国や北朝鮮、あるいはパレスチナ・ゲリラ(または、アラブのテロリスト)が敵役となっています。。
 それにしても欧米におけるスパイ小説の見上げるような高峰の連なりには圧倒されます。
 以下、かつて夢中になって読みふけったエスピオナージュの傑作の数々を挙げてみます。(いちいち明記しませんが、これらの翻訳の大部分は、ハヤカワ文庫、ハヤカワ・ミステリ文庫、新潮文庫で刊行されています。)
ジョン・バカン「三十九階段」(この作品がスパイ小説の開祖。ヒッチコックがロバート・ドーナットやマデリーン・キャロルを主演に映画化。)
グレアム・グリーンヒューマン・ファクター」(イギリス情報部でグリーンの上司であったキム・フィルビー事件をモデルにした、言わずと知れた巨匠の傑作。私見では、エスピオナージュの金字塔。もう何度も読みました。)
 グリーンではほかに、フリッツ・ラング監督がレイ・ミランドを主役に映画化した「恐怖省」や、アレック・ギネスを主演にキャロル・リードが監督をしたエスピオナージュを風刺喜劇とした「ハバナの男」などもあります。
ジョン・ル・カレ「寒い国から帰って来たスパイ」(この作品は今でもスパイ小説の頂点の座を占めていると思います。マーティン・リット監督、リチャード・バートン主演で映画化。)
フレデリック・フォーサイスジャッカルの日」(フレッド・ジンネマン監督、エドワード・フォックス主演で映画化。)
ブライアン・フリーマントル「別れを告げに来た男」、また「消されかけた男」などチャーリー・マフィンのシリーズ。
エリック・アンブラー「ディミトリオスの棺」、「あるスパイの墓銘碑」
マイケル・バー=ゾウハー「パンドラ抹殺文書」、「ファントム謀略ルート」
デズモンド・バグリイマッキントッシュの男」(作者はアリステア・マクリーンと並ぶ冒険小説の一方の旗頭ですが、ジョン・ヒューストン監督、ポール・ニューマン主演で映画化された、作者唯一のエスピオナージュ。)
トレヴェニアン「シブミ」、「アイガー・サンクション」(後者はクリント・イーストウッドが監督・主演で映画化。)
レン・デイトン「イプクレス・ファイル」、「ベルリンの葬送」
ロバート・リテル「ルウインターの亡命」
ピエール・ノールエスピオナージ」(このジャンルでは珍しくフランスの作家。アンリ・ヴェルヌイユ監督、ユル・ブリンナーヘンリー・フォンダ主演で映画化。)
トマス・ハリスブラック・サンデー」(「羊たちの沈黙」の作者ですが、こちらの方が格段に面白い。ただ、厳密なエスピオナージュとは言えないかも知れません。ジョン・フランケンハイマー監督、ロバート・ショウ主演で映画化。モサドパレスチナ・ゲリラ”黒い九月”。)
アリステア・マクリーン「最後の国境線」(冒険小説の雄、マクリーンの作品では、最もエスピオナージュらしい作品にして最高傑作。)
ジェイムズ・グレイディ「コンドルの六日間」(シドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード主演で映画化。タイトルは「コンドル」)
など枚挙にいとまがありません。これらはみな、一読巻を置くことあたわざる、手に汗を握る傑作中の傑作です。映画もそれぞれ面白いものばかりです。(イアン・フレミングロバート・ラドラムは除きました。やや荒唐無稽でかつ類型的で、作品として評価し難しいことが理由です。)
 欧米の作品に比べて日本の諸作品は、陰々滅滅とした雰囲気の漂うスケールの小さいものがほとんどです。いわゆるエスピオナージュではありませんが、国際的なスケールの冒険小説としては、船戸与一の「山猫の夏」(講談社文庫)や「降臨の群れ」(集英社文庫)を始めとする作品群が、デズモンド・バグリイに匹敵するスケールの大きさとプロットの面白さで読ませます。
 欧米のスパイ小説の傑作の殆どが米ソ冷戦時代を舞台にしています。そうした冷戦の権化スターリン時代において政治に翻弄されることの最も大きかった作曲家はドミートリイ・ショスタコーヴィチです。彼の交響曲第9番がジダーノフ批判との関連でスターリンの逆鱗に触れた後、スターリンを讃える必要に迫られ、操を曲げてまでして当時スターリンが力を注いでいた植林事業をほめたたえる作品、オラトリオ「森の歌」を作曲し、やっと地位回復をはかることができたと言われています。
 大学の頃、そんな事情も知らずにこの曲を純粋に音楽として好んで聴いていたことを思い出します。経緯を考えなければ、ロシアの森の風景と働く人の姿が目に浮かぶ、耳になじみ易い名曲だと思いますが。当時聴いていたのはムラヴィンスキーレニングラードフィルの演奏です。
 なお、スターリン批判に伴い、1962年にショスタコーヴィチ自身がスターリン絶賛部分の歌詞を大幅に改訂しています。
 今までにこの曲を演奏をしてきた主な指揮者は、(ムラヴィンスキーを別にすれば)ウラジーミル・フェドセーエフ、エフゲニー・スヴェトラーノフ(故人)、ユーリ・テミルカーノフのほぼ3人で、歌詞の選択(オリジナルか1962年改訂版か)は指揮者に任されているようです。この曲の演奏をめぐってはソ連邦崩壊時にフェドセーエフのとった武勇伝的行動が有名ですがここでは省略します。
 なお、日本では合唱曲としてうたごえ運動などの中で盛んに歌われていました。
 以下は、2006年にテミルカーノフサンクトペテルブルグフィルハーモニー交響楽団を引き連れて来日した際、サントリーホールで演奏した記録です。全曲を3分割してyou tubeに投稿されていますが、最初の1/3だけを聴いてみます。第1曲<勝利>(1962年改訂版では<戦争が終わったとき>)の最初に歌われるバスのアリアが印象的です。

 本年3月14日(私の誕生日でした)から始めたブログも、今日大晦日となってこれが今年最後の投稿(54本目)になります。政治・経済・国際関係など激動の1年でしたが、肝心の問題はすべて先送りされ、不安の霧に包まれたまま新年を迎えることになります。日本という国が果たして本当にこのまま衰退していってしまうのか、もしかして私たちは、J.G.バラードの描く破滅の世界のように、はるか彼方の星座から送られてくる宇宙の終末へのカウントダウン信号を数え初めているのではないか(「時の声」創元SF文庫)、それはここ1〜2年のうちに少しははっきりするような気がします。このブログも当初の目論見からやや逸れて、今起こりつつある様々な事象やその遠因となっている歴史に目が向いてしまいがちになりました。これにどう方向を与えていったらいいかは来年の課題です。