インテルメッツオ(ちょっとひとやすみ)

ー世捨て人グレン・グールドの眼


 グレン・グールドは、<ベートーヴェンの最後の三つのソナタ>という題の文章(ライナー・ノート)の中で、ガブリエル・フォーレの親友で音楽学者のヨーゼフ・ド・マルリアーヴのベートーヴェンの四重奏曲に関する著書の中にある記述を指して、「マルリアーブの『内面的かつ瞑想的な耳への訴え』という言い方は、音楽の分析というよりむしろ哲学的推量を基盤とした作品の採りあげ方をあらわしている。」と皮肉っています。(「グレン・グールド著作集1」みすず書房) 
 これを読んで、頭をガツンとやられた気がします。省みるにつけ、哲学的はおろか、単に感想的かつ印象的で、まあ揶揄的に言えば文学的、当たり前に言えば情緒的・感傷的推量を基盤とした作品の採りあげ方にひたすら励んでいたに違いないからです。
 こう自省しつつも、しかし音楽のテクニカルな素養に欠け、今更いかんともしがたい運命下にある者としてあらためて十分肝に銘じた上で、それでも心の底から音楽が好きな人間として、楽曲に真摯に向かい合い、(十分ではないにしても)それなりに理解をし、心に刻み込み、生きていくための糧とすることはできると思うのですが・・・?

 グールドのこのライナー・ノートは皮肉たっぷりのユーモアに富んでいて、あまりに面白いので、もう少し引用してみます。
「作曲家の音楽歴を年代で区切り、かなり気まぐれに選んだ、時期別の特徴を押しつけることは音楽人類学のお楽しみの一つ」と揶揄したうえで、「外的な物理的条件でなく、まったく主観的な精神状況を採用し、芸術作品を哲学的意味によって解釈し、この解釈を作者の知的態度のたしかな描写として受け入れることのほうがはるかに大きな誤りを犯すことになる。」と断じています。
 そして「これを絵に描いたようにやってしまう人種を」いくつか挙げ、「かれらは、一人の芸術家による専門的概念の段階的発達を評価するという、きびしい割には地味な仕事に直面すると、突然に、音楽外のあいまいな感覚領域の預言者のような姿を見せる。」と洞察しています。
 さすがにそこまで言われては、人の心底を見通す眼力にシャッポを脱がざるを得ないのですが、それにしても彼の、〞触れなば切れん〞という縦横無尽の太刀捌きにはお手上げで、ただ感嘆するのみです。更に、
「この手のひどい仕打ちを受けてきた作品としては、・・・ベートーヴェン後年の作品がその最たるものではないだろうか。」とし、「後年の作品、いわゆる『晩年』の作品は、そうしたいわば音楽占い師にとって格別の魅力をもっている。」と述べたところで、だめ押しとして、
「最後のソナタ群と四重奏曲群について書かれたおびただしい評論は、同種のいかなる評論と比べても、矛盾だらけであることは言うにおよばず、ノンセンスという点で抜きんでている。」と、そこまで言うか、という結論を持ってきます。この後に、冒頭のマルリアーヴについての言及がくるのです。

 まいった!ということで、もう何も付け加える言葉もありません。