独断と偏見で選ぶこの世で最も心に響く名曲10選(その7)<沈守峰の「その時、その人(クッテ ク サラン)」 と、趙容弼が歌う「鳳仙花(ポンソンファ)」>

1、沈守峰(シム・スポン)の<その時、その人(クッテ ク サラン)>
 1979年10月26日、韓国大統領の朴正煕が、ソウル市宮井洞にある韓国中央情報部(KCIA)管轄下の宴会部屋(ナ棟)で晩餐会の最中、大統領の腹心の一人であった中央情報部長金載圭により、同席していた大統領警護室長車智茢とともに射殺されるという大事件が起きています。
 その晩餐会には、二人の女性がコンパニオンとして招かれていましたが、この二人が大統領暗殺という歴史的大事件の直接の目撃者となることから、その後の彼女らの運命は激変することになります。戒厳司令部での取り調べや病院での監禁、証人としての裁判への出廷、あるいは事件当夜の宴席にいたことに関する様々な憶測など、次々と苦難に見舞われることになったのです。
 この事件については、趙甲済の著書「朴正煕、最後の一日 韓国の歴史を変えた銃声」に克明に記録されています。現在の韓国を知るためにも、必読と言っていい著作です。事件の真相を鋭く抉りだした、まさに迫真のドキュメントです。
 その女性の一人は女子大生のモデルの申才順(シン・ジェスン)、もう一人が新人歌手の沈守峰(シム・スポン)でした。彼女はシム・ミンギョンという名(本名)で作詞作曲した<その時、その人(クッテ ク サラン)>という歌でデビューしたばかりでした。(シム・スポンは、トロット歌手には珍しいシンガー・ソング・ライターなのです。)
 この夜の宴会で彼女は<クッテ ク サラン>をギターの弾き語りで歌った後、大統領のアンコールに応えて<涙に濡れた豆満江>を歌っています。(前述の本にその経緯が書かれています。)
 私が最初に韓国へ行ったのは1985年頃だったと思います。チョン・スラの<ああ!大韓民国>がヒットパレードのトップを飾っていた頃です。この曲が発表されたのは1983〜4年ころですから。(チョン・スラはその後来日していますが、偶然新宿のクラブで彼女のステージに出くわして歌を聴く機会があり、懐かしい思いをしました。)
 その時は、ソウルのロッテ・デパートで、イ・ミジャ、キム・スヒ、チェウノ、ハ・チュナなどのテープとともに、シム・スポンの<クッテ ク サラン>の入ったテープも買い求めています。その時は、彼女を巡る様々な事情など、全く知りませんでした。これら歌手たちのテープを、日本へ帰って繰り返し聴き続けることになりますが、それでも事件の事情を知るようになったのはずっと後でした。
 なお、彼女の全斗煥政権下での歌手活動の禁止が解けたのが1984年のことです。
 李美子(イ・ミジャ)以降でのトロットの女性大歌手といえば先ずキム・スヒですが、この大スキャンダルに巻き込まれなければ、シム・スポンも彼女に匹敵する大歌手になっていた筈です。天賦の優れたリズム感や、いかにも可憐で独特の鼻にかかる哀愁を帯びた声は一度聴いたら忘れることができません。(なお、現在の第一人者はと言えば、やはり<雨降る永東橋>の”チュ・ヒョンミ”でしょうか?)
 左下は、10.26事件の1年前、1978年の文化放送MBC)の歌謡祭で(大学のような所で)歌っているデビューしたての弾き語りで、右下の画面の2曲目が風雪に耐えて年輪を重ねてきた後年のシム・スポンが歌っている姿です。
(左のコンサートでは、司会者が本名のシム・ミンギョンと紹介しています。)

 右上の歌唱における聴衆の大喝采は、シム・スポンが辿った苦難の道と、同時期に韓国が辿った苦難の道と重ね合わせてみた深い感慨から、思わずほとばしり出た心からなる喝采だと思います。 
 以下に、シム・スポンの歌を何曲か紹介しておきます。
クッテ ク サラン(アルバムになったスタジオ録音ですが、彼女の声の魅力を目一杯引き出すことに成功しています。)
百万本のバラ(もとはロシアの歌謡曲で、国民的歌手のアーラ・ブガチョフが歌っていたもの。韓国では同名の連続ドラマが大ヒットしています。)
サランバゲン ナン モッラ(彼女の持ち歌の中で人気の高い曲の一つ。)
 シム・スポンが晩餐会で<クッテ ク サラン>の次に歌ったという<涙に濡れた豆満江>を、彼女の映像がないので、you tubeにある北朝鮮の映像で観てみたいと思います。

   
                                                                                   次回へ続く