東日本大震災の影響か、音楽会の公演延期・中止が相次ぐ。ボストリッジに続いてヘレヴェッヘも・・・。

 3月31日のイアン・ボストリッジの<テノール・リサイタル>の公演延期に続いて、今日”チケット・ぴあ”から電話があり、6月5日に予定されていたヘレヴェッヘの<ロ短調ミサ曲>の公演中止の連絡が入りました。(会場は所沢ミューズ)
 地震原発事故のせいでしょうが、日本という国が文化的にも見捨てられつつある現状を象徴している出来事なのではないかと怖れます。そういえば、原発事故の当初の洪水のような報道ぶりに比べ、今は何か奇妙な凪ぎのような落ち着きぶりですが、本当にこの事故の危機的状況が大きく改善されたのでしょうか、それとも国民に意識に悪しき慣れと鈍麻が生じたのでしょうか。外国では、矢張り強い警戒感が残っているようです。日本人の忘れやすい国民性が露呈しているのでなければいいのですが。まさに天災は忘れた頃にやってくるのですから。
 ゴールデン・ウィークを利用して、一昨日昨日と、石黒耀の『震災列島』と『死都日本』(共に、講談社文庫)を読み返してみました。共に予見性に満ちた傑作です。前者は東海・東南海の連続地震浜岡原発メルトダウン事故、後者は南九州の霧島火山帯(加久藤カルデラ)の破局噴火を背景に、政治家や官僚の愚かさと個人の勇気を交錯させた読み応えのある物語となっています。今全国民必読の書ではないでしょうか。作中の『古事記』の解釈も成程と思わせますが、ここでは触れません。
 ところで、活動期に入ったと思われる地震国日本と並んで、火山国日本を忘れてはならないでしょう。この物語のような破局噴火が起きれば、どんな大きな地震ですら児戯に類したものでしかありません。最近の桜島噴火も通常見られる南岳山頂火口のみならず昭和火口からの噴火も増え、また霧島の新燃岳の噴火の様子も何か不気味な感じがしてなりません。かつて、雲仙普賢岳の噴火がようやく治まった頃に、鹿児島から福岡行きの旅客機(今は、路線廃止となりましたが)の窓から俯瞰した普賢岳の何とも残酷で醜い、ケロイドのような火砕流の跡が今でもはっきり目に焼き付いています。当時鹿児島市に住んでいて、度重なる桜島の噴火で慣れているはずにも関わらず、普賢岳の恐ろしい有様を目にして慄然とした記憶があります。
 ヘレヴェッヘのものはありませんが、ヘルベルト・ブロムシュテット=ゲヴァントハウス管弦楽団が、私の昨年訪れたライプツィヒの聖トマス教会で演奏したと思われるバッハ<ロ短調ミサ曲>のキリエを聴いて、せめてもの慰めとしたいと思います。
 
 追記(平成23年5月28日)
 ヘレヴェッヘの<ロ短調ミサ曲>のキリエが 下記のとおり、you tubeにありました。

この名曲にこの名演あり(2)ジャン=フランソワ・エッセールの弾く、モンポウの「歌と踊り」第8番の懐かしさが胸迫る旋律 

 今から10年ほど前のこと、事情があって1年足らずの期間、南房総天津小湊町で過ごしたことがあります。2005年に鴨川市に合併されましたが、日蓮の生まれたことで有名で、清澄寺や鯛ノ浦などの名勝がありました。2001年の2月から同年11月までです。
 南房総は冬は暖かく、夏は涼しく、その前に住んでいた気候の激烈な鹿児島に比べればまことに穏やかで過ごしやすい土地柄でした。近くの御宿町には<月の砂漠の像>があり、また鴨川市には<浜千鳥の碑>もありました。私の住んだ家は、海岸を走る国道128号線の10メートルほどの山側で、家を出れば、国道の先の広く平らな岩場の先にはいつも穏やかな海が拡がっています。ただ裏山には猿や鹿がいて、山蛭の巣窟でもあり、家の屋根の上では猿がしょっちゅう騒いでいました。
<浜千鳥>の冒頭の”青い月夜の浜辺には”という詩は、ここへきて初めて理解できました。明るい月夜に家を出て岩場に佇み海を見ていると、言葉通りの青い月夜が実感できます。
 ところで、ここで知り合った小さな土建業のY社長の家へよく遊びに行きましたが、あるときリビングの片隅に沢山の音楽テープがあるのに気付きました。聞くと、主が不在となった家にあったものだそうです。そのうちいくつかを選んで、Y社長から貰ってきました。その中に館野泉さんの演奏するラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」の後に、ジャン=フランソワ・エッセールに弾くフェデリコ・モンポウの「歌と踊り」の第7,8、9番が入っていました。そのうち第8番(歌と踊りの、歌の部分)を聴くと、何故かひどく懐かしい気持ちがするのです。この懐かしさは一体どこから来るのか不思議で、心魅かれるままに繰り返し聴いていました。
 その後私自身転変を重ねて来て、今は東京の片隅に身をひそめていますが、ついこの前、久しぶりにこの曲のテープを聴いていて”はっ”と思い出したのです。これは、大学時代の友人で、ギターの上手いM君が得意にしていた曲と同じだったのです。友人の下宿に学生仲間が集まった時に彼がよく弾いていたことを懐かしく思い出しました。「アメリアの遺言」というタイトルで有名なカタローニャ民謡です。そういえばこの曲は映画「禁じられた遊び」の中でも用いられていたのです。モンポウの曲の旋律はほとんど「アメリアの遺言」と同じと言っていいのです。この曲は、ミゲル・リョベートが独奏用に編曲して一躍有名になりました。
 下は、Daekun Yangというギタリストの演奏で、you tubeの中で一番気に入った演奏です。
 
  モンポウの「歌と踊り」はアリシア・デ・ラローチャのものが知られており、その演奏は確かに堂々としていて立派ですが、やはり思い入れたっぷりの情感が漂うエッセールの演奏がこの曲にはぴったりだと思います。エッセールはモンポウに直接教えを受けたと言われていますが、確かめてはいません。また、今年の<ラ・フォレ・ジュルネ・オ・ジャポン>で5月に来日予定となっていましたが、現在チケットは発売停止になっているようです。
 第8番ではyou tubeではエッセールの演奏はなく、モンポウ本人とアルド・チッコリーニの演奏を聴くことができます。「歌と踊り」では第6番が有名で、これはミケランジェリなど多くのピアニストの演奏がアップロードされています。
 以下は、左がモンポウ本人による第7,8,9番と、チッコリーニの弾く第8番の演奏です。
 

この名曲にこの名演あり(1) チョン・トリオの「偉大な芸術家の思い出」―これは地球文明への挽歌?

 東北関東大震災福島第一原発の深刻な事故の後は、どうも音楽を聴く気持ちが萎えてしまっています。今まで当然のものとして疑いを持つことのなかった人間存在の基盤が今にも崩れ落ちそうな事態に直面し、その上に乗っているあらゆる文化現象がすべて空しいあだ花(空華)のように思えて仕方がないのです。
 今度の大地震・大津波原発事故で見えてきたものは、日本を構造的に支配している政・官・財・労・学・マスコミにまたがり、毒が蔓延して骨がらみになっている、あたかも巨大な原子力・核コングロマリットを思わせる巨大な恐竜のような姿でした。
 小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)によれば、日本の電力需要は、現在50%しか稼働してない火力発電所を70%まで稼働アップすれば、原子力に頼らなくても十分賄えるそうです。しかしすでに毒の回ってしまった政治家・官僚・財界人・東電労組関係者・東大を始めとする学者たちは、先には破滅しかないのに、とにかく走り続けるしかないのでしょう。長年にわたって利権に与ってきた自民党を始めとする多くの政治家たち、電力業界を縄張りとしている経済産業省の役人たち、東電を筆頭とする電力会社・東芝や日立や三菱重工といった原子炉メーカー・鹿島建設などのゼネコン・メガバンク、また政界などに網目のように張り巡らされた東電労組出身者グループ、東電などの電力会社が事実上唯一の寄生先になっている東大や東工大などの原子核工学に携わるパラサイト学者たち、電力会社の広告で食わせて貰って碌に物も言えず腰抜けとなっている大マスコミなど、これらの実態が白日の下、その奇怪な姿を否応なく曝しだしてしまったのが今回の大災害の派生効果でした。
「天災は忘れたころにやってくる」とは寺田寅彦の言葉だそうですが、それは多分昭和9年11月に「経済往来」に発表した『天災と国防』で述べられた寺田の本意を端的にまとめた表現であると思われます。しかし、こうした指摘はすでに、12世紀に起こった元暦大地震など多くの自然災害について記述した鴨長明の『方丈記』にあります。ここでは、人がいかに過去の災害の体験から学ばずに、忘却に押し流されてしまう存在であるかを嘆いています。
 <すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言い出づる人だになし。> (『方丈記』〔23〕より)
 繰り返しますが、鴨長明はただ単に天災(自然災害)の体験に対する人間の忘れやすさという性質を指摘しているのみならず、人間が天災に対していかに無力な存在であるかという無常の体験から人としての生き方を一向に学ぼうとしない人間の浅はかさをを嘆いているのだと思います。

 こんな状況の中でふと聴いた、チャイコフスキーのピアノ・トリオ「偉大な芸術家の思い出」は、3.11の後では、私の耳にはまるで「偉大な地球文明の思い出」とでもいうように䔥条と響きました。この曲には、数々の名演と言われる演奏がありますが、その殆どは演奏家がそれぞれの腕を競う態のものであり、センチメンタルな感情表現に傾きすぎた演奏が殆どでした。しかし、ここに聴くチョン・トリオの演奏の緊密なアンサンブルの作り出す音の宇宙は、それらとは一線を画す、この曲の唯一無二と言っていい人間の存在の根底に触れる演奏です。
 
 それにしても、チョン・キョン=ファの情念を内に秘めた鬼気迫るヴァイオリンの至芸とも言うべき変幻自在で重層的な表現力は圧倒的で、しかも東洋的な諦観さえ感じる深い祈りを思わせる旋律と音色は、大災害のせいで出来た心の空洞の中をただ嫋嫋(じょうじょう)と響きわたります。

国立能楽堂で世阿弥の<高野物狂>を観る。そして音曲に酔いつつ空海について考える。



 4月6日、午後2時より、国立能楽堂の4月定例公演で、狂言<八句連歌>と、能<高野物狂>を観ました。久しぶりに暖かい日で気持ちよく晴れ上がった青空の下、国立能楽堂は大勢の観客であふれていました。敷地内の桜の樹も満開に近く、このところ東日本大震災ですっかり荒んでしまった私たちの心を僅かに慰めてくれました。この日はまた、春休みでドイツから帰国していてちょうど大震災の時日本に居合わせた娘が、ベルリンへ戻った日でした。
 この日の出し物は、先ず狂言の<八句連歌>で、野村万作・万斎親子が共演し、息の合ったユーモアたっぷりの舞台で観客をひきつけ、さわやかな笑いを誘っていました。
 そして本日の能は世阿弥の<高野物狂>(元禄版本)で、直面(ひためん)の、珍しい男物狂の作品です。シテは片山幽雪師で、至芸を披露されましたが、ややお疲れのようにお見受けしました。(私の気のせいならばよいのですが。)ワキは宝生閑師のご子息の宝生欣哉師で、朗々とした豊かな声が印象的でした。
 直面について世阿弥は『風姿花伝第二』で、
「これまた大事なり。およそ、もとより俗の身なれば、やすかりぬべき事なれども、ふしぎに、能の位上らねば、直面は見られぬものなり。」(これもまたむつかしい。そもそも役者がもともと成人男子なのだから、簡単であるはずなのだが、不思議に、芸の格が上がらないと、素顔で演じる能は見られたものではない。―竹本幹夫訳)
と述べています。
 さらに『風姿花伝第一』の<年来稽古条条>の”四十四五”の中で、
「まづ、すぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りては見られぬものなり。さるほどに、この一方は欠けたり。」(まずもって、非常な美男ならばともかく、かなりの容姿の主であっても、素顔で演じる能は、年をとっては見られたものではない。であるから、この直面という一分野は、持ち芸から脱落するのである―竹本幹夫訳)
とも言っています。

 片山師は、芸の格の点では申し分ないのですが・・・。ふと、この舞台の一番奥で後見を勤めていた遠目にも美男子ぶりの際立つ観世清和師がシテであったら、と思ったりしました。
 この舞台では、とりわけ囃子(笛と小鼓、大鼓)と地謡が重要な役割を占めているように思えます。先ず、肺腑をえぐる鋭い笛で舞台がはじまり、胸にずんと応える充実した地謡が続きます。ただならぬ緊張感で舞台が張りつめているとシテが登場します。中入り後も気迫のこもった甲高い笛で開始します。かくの如く藤田六郎兵衛師の笛は素晴らしいものでしたし、小鼓の大倉源次郎師、大鼓の亀井広忠師という名人上手が揃い、気合いをこめた掛け声と鼓の音との絶妙な間合いの心地よさに酔いしれました。

 この能は高野山が舞台ですが、実は前回採りあげた、日本の名著「新井白石」の付録の中の対談集で、湯川秀樹博士が自分の好きな日本の思想家の第一位に空海を挙げておられるのを知り、早速空海の『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)を手に入れて読んでいたところでした。この書は「空海が自身の大著『十住心論』の精要として著したもの」(立川武蔵氏の解説)といわれている著作です。
 幸田露伴は<文学史にあらわれたる弘法大師>という講演の中で空海の代表的著作である『秘密曼荼羅十住心論』について「併し何という立派な文章でありましょう。十住心論の如きは蓋し単に文学としても、即ち著述の本意に於ては無価値のものとしたところで立派に世に存するに足るもので、文学史上には之を逸することの出来無いもので有ります。」と述べていますが、私が『秘蔵宝鑰』を宮坂宥勝氏の訳注を参照しながら読んでいるのも、空海の卓越した文章力を僅かでも味わいたいがためでした。


 例えば、『秘蔵宝鑰』の巻頭に置かれた<序詩>は、勿論漢文の書き下し文ですが、読めば読むほど隔絶した、とても人間業とは思えない根源的な言葉の力と圧倒的な詩的感性をひしひしと感じます。つとに有名な最後の三行を引用してみます。
  四生(ししょう)の盲者は盲なることを識(さと)らず
  生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに暗く
  死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し
*四生とは、あらゆる生きものを四種類に分けたもので、胎生、卵生、湿生、化生をいう。(宮坂宥勝氏の語釈より)
 空海本人の著作以外に、先ず宮坂宥勝氏の『空海 生涯と思想』(ちくま学芸文庫、2003.9.10)を読み、現在は松岡正剛氏の『空海の夢』(春秋社、2005.12.30)と、もう何度目になるか分からない位読み続けてきた司馬遼太郎氏の『空海の風景』(中央公論社、S.50.11.30)を併読しています。空海については稿を改めて考えてみたいと思っています。

 なお、公演が終わって、一緒に能を観た職場の同僚と新大久保の韓国料理店「おんどる」で食事をしました。午後4時頃という中途半端な時間帯のせいか、さすがにこの有名店も比較的空いていて、待たずに食事ができました。炭火焼肉と海鮮チヂミ、サラダとチャンジャと冷麺をいただきましたが、どれも水準を超えたおいしさでした。また店の方々のサービスも実に行き届いたもので感心しました。また是非訪れたいと思っています。

東北地方太平洋沖地震に茫然、新井白石の『折たく柴の記』を読み、人としての出処進退の見事さを学ぶ。

 今回の大地震に際して思い出したのは、矢張りと言うべきか、新井白石の『折たく柴の記』に記述されている江戸を襲った元禄16年の大地震の体験談のことです。(同書には、他に宝永4年の富士山大噴火の記述もあります。)

 中央公論社の「日本の名著」の輝かしい第1回配本(昭和44年)の<新井白石>を引っ張り出し、『折たく柴の記』にある地震の記録を確認しようと上巻から読み始めましたが、読み進むうちに心の中にずっしりとした手応えを感じたのは、この自伝文学の傑作に漲っている新井白石の人としての凛とした姿勢の正さと、出処進退の見事さでした。
 例えば次のようなエピソードがあります。師の木下順庵が白石を加賀の前田家に推挙しようと思い立った時、同僚で加賀の人である岡島某が「加賀に年老いた母がいますので、なんとかして先生に御推挙いただくよう申し上げてください」と言われ、白石は師にそのことを詳しく伝えて、
ー「私の仕官は、どこの国でもかまいません。あの人にとっては、老母のいる国でありますから、私のかわりに御推挙くださるよう、私からもお願い申します。きょうからは、私をあの国に御推挙くださることは、かたく御辞退申し上げます」ときっぱり申し上げたところ、このことをじっとお聴きになって、「当節、だれがこういうふうなことを言う者があろうか。むかしの人をいまに見るということはこういうことである」と言って、涙を流されたが、この後も、いつもこのことを人びとに話された。(前掲書80頁:桑原武夫訳)
 むかしの人とは、桑原氏によれば古武士のことであり、その徳目(決断・勇気・忍耐・禁欲・質素・寡黙・清潔)が尊重さるべきとしています。しかし、そのバックボーンは多分、古代中国の古典に見る孔子を始めとする聖人君子のことであるとも考えられます。順庵の言葉からも、既にこの時代の人としての有り様(よう)がこれら理想的人物像から遥かに遠ざかっているのがよく分かります。
 白石のこうした姿勢はこの書の随所に読みとれます。また、同時に(封建制度下の主従関係の枠を超えて)強く感じたのは、主君の綱豊(後の六代将軍家宣)の家臣に対する思いやりの深さであり、同時に、主君たるものの当然の責務として課される厳しい勉学であり、それを当然として学問に打ち込む真剣な姿勢です。たとえ封建時代の武家制度において絶対的君主としての殿様といえども、身を犠牲にしても家(組織であり社会でもある)や領民を守る絶対的な責任があり、そのためにも有用な家臣を大切に扱うという姿勢は、学ぶべきものがあります。それらと比較して絶望的な気持ちにさせられるのは、現在の私たちの戴く政治家や社会の指導者たちとの悲しいほどの覚悟と資質の違いです。
 この書には、元禄の大地震前後の徳川幕府の財政政策についての白石の考えや事績が語られています。ご多分にもれず、幕府も財政赤字に悩まされていたことが分かります。そこで出てくるのが金銀貨幣の改鋳の問題です。これを推進して幕府財政を救わんとしたのが将軍綱吉時代の柳沢吉保勘定奉行となった荻原近江守重秀であり、後者は家宣の治世下でもこれを推し進めようとしましたが、貨幣の純度を慶長小判の水準まで戻そうと考えていた白石は断固これを退け、最終的に重秀を罷免に追い込みます。白石は一種の経済音痴で、嫉妬に近いほど重秀のインフレ政策を憎みましたが、果してどちらが正しかったのか、議論が分かれるところです。一たび政府が出来上がると、必ず公共工事社会保障に莫大な財政資金が注ぎ込まれ、また官僚が肥大化し、畢竟財政赤字に向かって進んでいくのは昔も今も一種の宿痾のようになっていますが、それをどうやって切り抜けるかは今に到っても議論が定まりません。日本人の感性からすれば、上杉鷹山のような極端な緊縮財政と産業振興を併せて実施することに喝采を送りたくなりますが、現代のような肥大した国家社会では極めて困難な政策と言えましょう。白石と重秀の政策を比べてみると、白石の考えは儒教道徳を経済にまで持ち込もうとした因循さが感じられますし、少なくとも経済財政政策としては重秀の考えは天才的と評価してもよいでしょうが、どちらも上手くいくとは思えませんし、そのことは歴史が証明しています。
 五黄土星生まれの私は、生まれた年が太平洋戦争が勃発した年であり、昭和30年に新潟市内中心部を炎が舐め尽くした新潟大火に直面し、昭和39年には故郷の新潟が大地震に見舞われ、鹿児島にいた時には激特事業の対象となった集中豪雨による大洪水(平成5年8月)に遭遇し、当時の九州では雲仙普賢岳の大噴火もあり、どうやら五黄土星の星の下の人間は天変地異に強い縁があるのかと思っていました。
 しかし今回の大地震原発の災害はこれまでの経験を超えた、想像を絶する大災害です。私が生きている間に、このような悲劇にこの国が見舞われるとは夢にも思わず、さらに亡くなられた方々や未だもって行方不明の方々、被災して今この瞬間も筆舌につくせぬ苦難の中にある方々の身の上を思うと胸は塞ぎ、ただ暗澹たる思いに心が張り裂けんばかりです。また過酷な条件下で原発の復旧作業に身命を賭している自衛隊、消防、警察、市町村職員の方々は勿論、さらには東電と協力会社の作業員の方々の身上や気持ちを考えると、ただただ心から頭が下がるのみで、他方どこにぶつけていいか分からない激しい怒りと悲しみに身が打ち震えます。
 今回被った大きな災厄により、日本はその文明の一部に毀損ないし欠落を生じさせたのではないかと怖れます。願わくばこれが杞憂であらんことを!今私たちに必要なのは<希望>です。日本の再生に繋がる<希望>の端緒を見たいのです。
 私たちは今こそ日本の古典に還るべきです。古典に足場をー日本人としてのアイデンティティを保つために古典に精神の足場を築き、これから迎えるであろう苦難に備えるべきなのです。
 前掲書の桑原武夫氏の解説の中に、白石が晩年の”孤独と寂寥のなか”(桑原武夫氏)にあった享保8年作の一篇の詩が紹介されていますが、今の私の心境に強く添ってくるものがあるので、孫引きですが下記に引用してみます。(前掲書17頁)
  何ぞ堪えん今夜の景、
  去年の晴に似ざることを。
  天は中秋に到って暗く、
  人は子夏の明に同じ。
  交遊 空しく旧態、
  衰老 なお余生あり、
  雲雨 手をひるがえすが如し、
  世上の情に関するにあらず。
*「子夏の明」とは、桑原氏の解説によれば、「その子死し、これを哭(こく)して明を失う」という『史記』の「仲尼弟子列伝」に所載の、子夏が子をなくした悲しみから 失明したという故事によるものです。
*「雲雨」は、これも桑原氏の解説を引用すれば、杜甫の詩「貧交行」の「手をひるがせば雲となり、手をくつがえせば雨となる。紛々たる軽薄、なんぞ数うるをもちいん」からきています。 

<緊急報告>東日本巨大地震と、47年前の新潟地震

 3月11日午後に発生した三陸沖を震源とする東日本巨大地震に遭遇したのは、勤め先の病院の事務室においてでした。大きな揺れを感じながら事務室の壁に手で身を支えながら、思い出したのは昭和39年に起きた新潟地震のことでした。
 新潟地震が起きたのは昭和39年6月16日午後1時1分41秒、マグニチュード7.5の大地震でした。4mの津波も発生しています。
 この年、私は新潟の大学を卒業し、4月に東京の某銀行の下町にある支店に勤務を始めたばかりでした。銀行の窓口で当座預金のテラー係をしていたとき、急に目まいを覚え、おや?体の不調かな、と思った時、銀行のドライバーが飛んで来て、新潟が地震で壊滅したと興奮して告げたのを聞き驚愕しました。何と地震の揺れのせいだったのです。急いで守衛室へ行きテレビを見ると、石油タンクの炎上の場面が流れ、町の壊滅的な状況も映し出されているのです。とっさに新潟にいる父母や妹の安否が頭をよぎり、大きな不安で居ても立ってもいられない気持ちに駆られました。翌日急きょ新潟へ行くことにし、上野駅からすし詰めの列車に乗りました。その列車も新津までしか行くことができず、新津から新潟へは別の列車に乗り換えへ、12時間ほど経ってようやく新潟駅に到着したのです。
 自宅は駅から万代橋を渡って20分ほどの信濃川に近いところにあります。勿論電気は全て消えて町は闇に包まれ、万代橋近くの昭和石油の石油タンクからはもうもうと黒煙が吹き上がり、この世の終わりかと感じたほどでした。
 翌日から家の近辺を歩き、惨憺たる災害の跡をみて歩きました。以下の写真は、古いアルバムから引っ張り出した、その時に私の撮影したスナップ写真の一部です。


 左上は万代橋から昭石の石油タンク炎上の煙を観たもの。右上は、私の母校の白山小学校前の惨状。


左上は橋桁の落下した自宅のすぐ近くの新しく作り直されたばかりの昭和橋。右上は昭和橋のたもとの惨状。



 左上は信濃川沿いの家屋倒壊現場。右上は倒壊した県営アパート。


 左上は倒壊した県営アパートの露出した基礎の惨状。右上は道路の陥没状況。




 左上はこの年「新潟国体」が行われた陸上競技場に救援のため飛来した自衛隊のヘリコプター。中央は駅前の町の様子。ビルが傾いているのが分かります。右上は家の近く(白山浦?)の通りの様子。



 左上は被災した越後線の駅舎(白山駅?)、右上はへし曲がった越後線の線路。

ベートーヴェン<ピアノソナタ第32番、作品111>第2楽章―晩年のベートーヴェンが辿りついた何ものにも捉われない薄明の中の無心


 3月4日、偶然NHKテレビの芸術劇場にチャンネルを合わせると、何と懐かしいことに、昨年10月にベルリンのフィルハーモニー室内楽ホールで聴いて以来のアンドラーシュ・シフの姿が目に入りました。今年2月来日時の演奏の放映です。あのときと全く同じような服装で、ベートーヴェンの後期ソナタを演奏していました。中でも最後のソナタ、第32番作品111が素晴らしいものでした。この曲の第2楽章アリエッタがひときわ強く心に響きました。あたかも黄泉の国から差し込む薄明の中に無心の境地で座しているような心地でした。



 それはベートーヴェンが晩年に到達した誰も窺い知ることの出来ない、神韻縹渺として自在な精神世界のほんのかすかな手触りだったのかも知れません。また、最近読んだジョセフ・コンラッドの「闇の奥」の新訳(黒原敏行訳、光文社文庫)の最後の場面、語り手である(そして、コンラッド自身を投影した西欧の眼でもある)マーロウの”瞑想にふける仏陀の姿勢で黙って座っている姿”とこのアリエッタはぴったりだなどと、とりとめのない妄想が湧き上がってきます。
 そうなると猛烈にこの曲が聴きたくなり、マウリツィオ・ポリーニ、イーヴ・ナット、アルトゥール・シュナーベル、ウィルヘルム・バックハウス、ウィルヘルム・ケンプ、ソロモン・カットナー、ワルターギーゼキング、フリードリッヒ・ウィルヘルム・シュヌアー、フリードリッヒ・グルダグレン・グールド、アルフレート・ブレンデルという手に入る様々な音源を総動員して立て続けに聴き、併せて昨年ライブで聴いたクリスティアン・ツィメルマンの演奏を思い出し、それぞれさすがと感嘆した次第です。誰彼の演奏の良し悪しではなく、この曲の持つ捉え難さと奥深さをつくづくと味わうこととなりました。
 その中では、今まであまり聴くことのなかったイーヴ・ナットや、ほとんど初めてと言っていいソロモン・カットナーの古い演奏が逆に新鮮で、強い共感を覚えました。いずれも品格のある、優美さが心に沁み入るような演奏です。特にナットの孤独な哲学者の風貌を思わせる演奏は、この曲の一つのの高みを究めているような気がします。
 また、精緻な曲作りと微動だにしないテクニック、そして内的エネルギーの燃焼の凄まじさということではポリーニに軍配を上げたくなりますし、グールドの、余計なものをすっかり削ぎ落とした、修行僧の勤行のような集中力の高い演奏も捨て切れません。
 さて、その昔NHK/FMの「クラシック・リクエスト」という音楽番組で、解説のピアニストの清水和音氏が推薦していたシュヌアーの演奏も素晴らしいものです。清水氏はこの番組で、作品111について様々面白く語っていますが、このベートーヴェンが最後に到達したこの作品の高みに達している演奏は皆無である、と断言しています。この時エアチェックしたテープを今でも時々聴きますが、この清水氏の話の内容があまりに面白いので、テープを起こして少し再現してみます。
清水「ピアノをずーっと弾いていて手ごたえみたいなものが最も強い音楽です。(これは後期の5曲について言及しています。)」
清水「誰のを聴いても下手くそだというのが実感ですね。誰もこのレヴェルに到達していないし、それなりに立派な演奏もあるが、結局ベートーヴェンの考え出した高い次元に演奏家はまだ届いていない・・・」
司会者ー高みに到達していない?
清水「とてもじゃないけど全く無理で・・」
清水「演奏が良いのではなくて曲が凄い、それだけは保証できる。」
司会者ーリヒテルバックハウスの演奏をというリスナーからのお便りがきています。
清水「リヒテルはまあまあでしょう。バックハウスは何故か素人と評論家には人気がある。プロのピアニストが良くないというバックハウスブレンデルが一番評価が高いという、まあ、おかしな現象でしょうね。これは大きな声で僕らが叫ばないといけないと思う不思議な部分・・」
 そして、シュヌアーの演奏を選んだことについては、
「この人のが一番ましでしょうね。ベートーヴェンの音楽という意味でも一番ましだと思います。良い演奏とは言わないの、何でかと言ったら、良い演奏ないから。」
 清水氏の解説は、歯に衣着せず言いたい放題という感じで、これが他の評論家などからは絶対に聴くことのできないプロの演奏家の本音なのかも知れません。 
 古い演奏の音源の多くは「クラシックmp3無料ダウンロード著作権切れパブリックドメイン歴史的録音フリー素材の視聴、試聴」というweb siteからパソコン上のiTunesにダウンロードして聴いたものです。このサイトはまさしく宝の山です。

 ベートーヴェンの作品111のソナタをめぐっては、トーマス・マンの『ファウスト博士』の第8章の、いわゆる<クレッチュマル講演>が有名です。マンは大作家の中では最も音楽に造詣が深く、この部分を書くに際し、近所に住んでいたテオドール・アドルノから示唆を受けたと言われています。
 ヴェンデル・クレッチュマルという登場人物については、一体モデルがいるのか、いるとすればそれは誰か、などと従来より論議の的になっています。ハンス・ヘルマン・ヴェツラーという作曲家であるという説が有力ですが、それも確かではありません。まあこんなことは作品の本質には関係のないことで、あれこれ詮索するのが商売の学者先生にお任せしておきましょう。
 この章にはクレッチュマルが行った4つの講演について書かれており、その最初のものがベートーヴェンの作品111のソナタについての講演なのです。主な論点は<なぜベートーヴェンはピアノ・ソナタ作品111に第3楽章を書かなかったか>ということですが、作中でクレッチュマルはこう述べています。
―「この問題にみずから解答を与えるには」と彼は言った。「われわれはこの作品をただ聞きさえすればよかったのであろう。第三楽章だって?あんなふうに別れたあとで、またなにかはじまるというのか?あんなふうに離れたあとで、またなにかが戻ってくるというのか!いや、ありえないことである!奏鳴曲は第二楽章で、あの途方もない第二楽章でおわりを告げた。」
 なお、詳細な分析についてはネットで読める後記の2つの論文を参照して下さい。
 ただ、この章のクレッチュマルの講演の中で、少し気になる言葉があったのでここに記しておきます。
―「実際、音楽はあらゆる芸術のうちでもっとも精神的な芸術である。」
 音楽と精神性を結びつけるのはドイツの音楽に特有のものと思います。イタリア音楽やフランス音楽やスペイン音楽に対しては、こうした考え方では違和感が残ります。もっと感覚的な楽しみの要素が強いと思います。感覚的ということは呪術的なことにつながります。音楽の発生の過程から考えて、在り方としては恐らく後者の方が当たり前なのでしょう。精神的なものを求め、襟を正して聴くドイツの音楽の方が特殊なのだと思います。
森川俊夫(一橋大学機関リポジトリ)「『ファウスト博士』におけるクレッチュマル講演について」
杉村涼子(京都産業大学論集)「『ファウスト博士』におけるヴェンデル・クレッチュマルの章について」