この名曲にこの名演あり(1) チョン・トリオの「偉大な芸術家の思い出」―これは地球文明への挽歌?

 東北関東大震災福島第一原発の深刻な事故の後は、どうも音楽を聴く気持ちが萎えてしまっています。今まで当然のものとして疑いを持つことのなかった人間存在の基盤が今にも崩れ落ちそうな事態に直面し、その上に乗っているあらゆる文化現象がすべて空しいあだ花(空華)のように思えて仕方がないのです。
 今度の大地震・大津波原発事故で見えてきたものは、日本を構造的に支配している政・官・財・労・学・マスコミにまたがり、毒が蔓延して骨がらみになっている、あたかも巨大な原子力・核コングロマリットを思わせる巨大な恐竜のような姿でした。
 小出裕章先生(京都大学原子炉実験所)によれば、日本の電力需要は、現在50%しか稼働してない火力発電所を70%まで稼働アップすれば、原子力に頼らなくても十分賄えるそうです。しかしすでに毒の回ってしまった政治家・官僚・財界人・東電労組関係者・東大を始めとする学者たちは、先には破滅しかないのに、とにかく走り続けるしかないのでしょう。長年にわたって利権に与ってきた自民党を始めとする多くの政治家たち、電力業界を縄張りとしている経済産業省の役人たち、東電を筆頭とする電力会社・東芝や日立や三菱重工といった原子炉メーカー・鹿島建設などのゼネコン・メガバンク、また政界などに網目のように張り巡らされた東電労組出身者グループ、東電などの電力会社が事実上唯一の寄生先になっている東大や東工大などの原子核工学に携わるパラサイト学者たち、電力会社の広告で食わせて貰って碌に物も言えず腰抜けとなっている大マスコミなど、これらの実態が白日の下、その奇怪な姿を否応なく曝しだしてしまったのが今回の大災害の派生効果でした。
「天災は忘れたころにやってくる」とは寺田寅彦の言葉だそうですが、それは多分昭和9年11月に「経済往来」に発表した『天災と国防』で述べられた寺田の本意を端的にまとめた表現であると思われます。しかし、こうした指摘はすでに、12世紀に起こった元暦大地震など多くの自然災害について記述した鴨長明の『方丈記』にあります。ここでは、人がいかに過去の災害の体験から学ばずに、忘却に押し流されてしまう存在であるかを嘆いています。
 <すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言い出づる人だになし。> (『方丈記』〔23〕より)
 繰り返しますが、鴨長明はただ単に天災(自然災害)の体験に対する人間の忘れやすさという性質を指摘しているのみならず、人間が天災に対していかに無力な存在であるかという無常の体験から人としての生き方を一向に学ぼうとしない人間の浅はかさをを嘆いているのだと思います。

 こんな状況の中でふと聴いた、チャイコフスキーのピアノ・トリオ「偉大な芸術家の思い出」は、3.11の後では、私の耳にはまるで「偉大な地球文明の思い出」とでもいうように䔥条と響きました。この曲には、数々の名演と言われる演奏がありますが、その殆どは演奏家がそれぞれの腕を競う態のものであり、センチメンタルな感情表現に傾きすぎた演奏が殆どでした。しかし、ここに聴くチョン・トリオの演奏の緊密なアンサンブルの作り出す音の宇宙は、それらとは一線を画す、この曲の唯一無二と言っていい人間の存在の根底に触れる演奏です。
 
 それにしても、チョン・キョン=ファの情念を内に秘めた鬼気迫るヴァイオリンの至芸とも言うべき変幻自在で重層的な表現力は圧倒的で、しかも東洋的な諦観さえ感じる深い祈りを思わせる旋律と音色は、大災害のせいで出来た心の空洞の中をただ嫋嫋(じょうじょう)と響きわたります。