東北地方太平洋沖地震に茫然、新井白石の『折たく柴の記』を読み、人としての出処進退の見事さを学ぶ。

 今回の大地震に際して思い出したのは、矢張りと言うべきか、新井白石の『折たく柴の記』に記述されている江戸を襲った元禄16年の大地震の体験談のことです。(同書には、他に宝永4年の富士山大噴火の記述もあります。)

 中央公論社の「日本の名著」の輝かしい第1回配本(昭和44年)の<新井白石>を引っ張り出し、『折たく柴の記』にある地震の記録を確認しようと上巻から読み始めましたが、読み進むうちに心の中にずっしりとした手応えを感じたのは、この自伝文学の傑作に漲っている新井白石の人としての凛とした姿勢の正さと、出処進退の見事さでした。
 例えば次のようなエピソードがあります。師の木下順庵が白石を加賀の前田家に推挙しようと思い立った時、同僚で加賀の人である岡島某が「加賀に年老いた母がいますので、なんとかして先生に御推挙いただくよう申し上げてください」と言われ、白石は師にそのことを詳しく伝えて、
ー「私の仕官は、どこの国でもかまいません。あの人にとっては、老母のいる国でありますから、私のかわりに御推挙くださるよう、私からもお願い申します。きょうからは、私をあの国に御推挙くださることは、かたく御辞退申し上げます」ときっぱり申し上げたところ、このことをじっとお聴きになって、「当節、だれがこういうふうなことを言う者があろうか。むかしの人をいまに見るということはこういうことである」と言って、涙を流されたが、この後も、いつもこのことを人びとに話された。(前掲書80頁:桑原武夫訳)
 むかしの人とは、桑原氏によれば古武士のことであり、その徳目(決断・勇気・忍耐・禁欲・質素・寡黙・清潔)が尊重さるべきとしています。しかし、そのバックボーンは多分、古代中国の古典に見る孔子を始めとする聖人君子のことであるとも考えられます。順庵の言葉からも、既にこの時代の人としての有り様(よう)がこれら理想的人物像から遥かに遠ざかっているのがよく分かります。
 白石のこうした姿勢はこの書の随所に読みとれます。また、同時に(封建制度下の主従関係の枠を超えて)強く感じたのは、主君の綱豊(後の六代将軍家宣)の家臣に対する思いやりの深さであり、同時に、主君たるものの当然の責務として課される厳しい勉学であり、それを当然として学問に打ち込む真剣な姿勢です。たとえ封建時代の武家制度において絶対的君主としての殿様といえども、身を犠牲にしても家(組織であり社会でもある)や領民を守る絶対的な責任があり、そのためにも有用な家臣を大切に扱うという姿勢は、学ぶべきものがあります。それらと比較して絶望的な気持ちにさせられるのは、現在の私たちの戴く政治家や社会の指導者たちとの悲しいほどの覚悟と資質の違いです。
 この書には、元禄の大地震前後の徳川幕府の財政政策についての白石の考えや事績が語られています。ご多分にもれず、幕府も財政赤字に悩まされていたことが分かります。そこで出てくるのが金銀貨幣の改鋳の問題です。これを推進して幕府財政を救わんとしたのが将軍綱吉時代の柳沢吉保勘定奉行となった荻原近江守重秀であり、後者は家宣の治世下でもこれを推し進めようとしましたが、貨幣の純度を慶長小判の水準まで戻そうと考えていた白石は断固これを退け、最終的に重秀を罷免に追い込みます。白石は一種の経済音痴で、嫉妬に近いほど重秀のインフレ政策を憎みましたが、果してどちらが正しかったのか、議論が分かれるところです。一たび政府が出来上がると、必ず公共工事社会保障に莫大な財政資金が注ぎ込まれ、また官僚が肥大化し、畢竟財政赤字に向かって進んでいくのは昔も今も一種の宿痾のようになっていますが、それをどうやって切り抜けるかは今に到っても議論が定まりません。日本人の感性からすれば、上杉鷹山のような極端な緊縮財政と産業振興を併せて実施することに喝采を送りたくなりますが、現代のような肥大した国家社会では極めて困難な政策と言えましょう。白石と重秀の政策を比べてみると、白石の考えは儒教道徳を経済にまで持ち込もうとした因循さが感じられますし、少なくとも経済財政政策としては重秀の考えは天才的と評価してもよいでしょうが、どちらも上手くいくとは思えませんし、そのことは歴史が証明しています。
 五黄土星生まれの私は、生まれた年が太平洋戦争が勃発した年であり、昭和30年に新潟市内中心部を炎が舐め尽くした新潟大火に直面し、昭和39年には故郷の新潟が大地震に見舞われ、鹿児島にいた時には激特事業の対象となった集中豪雨による大洪水(平成5年8月)に遭遇し、当時の九州では雲仙普賢岳の大噴火もあり、どうやら五黄土星の星の下の人間は天変地異に強い縁があるのかと思っていました。
 しかし今回の大地震原発の災害はこれまでの経験を超えた、想像を絶する大災害です。私が生きている間に、このような悲劇にこの国が見舞われるとは夢にも思わず、さらに亡くなられた方々や未だもって行方不明の方々、被災して今この瞬間も筆舌につくせぬ苦難の中にある方々の身の上を思うと胸は塞ぎ、ただ暗澹たる思いに心が張り裂けんばかりです。また過酷な条件下で原発の復旧作業に身命を賭している自衛隊、消防、警察、市町村職員の方々は勿論、さらには東電と協力会社の作業員の方々の身上や気持ちを考えると、ただただ心から頭が下がるのみで、他方どこにぶつけていいか分からない激しい怒りと悲しみに身が打ち震えます。
 今回被った大きな災厄により、日本はその文明の一部に毀損ないし欠落を生じさせたのではないかと怖れます。願わくばこれが杞憂であらんことを!今私たちに必要なのは<希望>です。日本の再生に繋がる<希望>の端緒を見たいのです。
 私たちは今こそ日本の古典に還るべきです。古典に足場をー日本人としてのアイデンティティを保つために古典に精神の足場を築き、これから迎えるであろう苦難に備えるべきなのです。
 前掲書の桑原武夫氏の解説の中に、白石が晩年の”孤独と寂寥のなか”(桑原武夫氏)にあった享保8年作の一篇の詩が紹介されていますが、今の私の心境に強く添ってくるものがあるので、孫引きですが下記に引用してみます。(前掲書17頁)
  何ぞ堪えん今夜の景、
  去年の晴に似ざることを。
  天は中秋に到って暗く、
  人は子夏の明に同じ。
  交遊 空しく旧態、
  衰老 なお余生あり、
  雲雨 手をひるがえすが如し、
  世上の情に関するにあらず。
*「子夏の明」とは、桑原氏の解説によれば、「その子死し、これを哭(こく)して明を失う」という『史記』の「仲尼弟子列伝」に所載の、子夏が子をなくした悲しみから 失明したという故事によるものです。
*「雲雨」は、これも桑原氏の解説を引用すれば、杜甫の詩「貧交行」の「手をひるがせば雲となり、手をくつがえせば雨となる。紛々たる軽薄、なんぞ数うるをもちいん」からきています。