<トリックスター>あれかこれか― ”ねずみ男”と”ルパン三世”

<音楽日記>と銘打ったブログの範疇を逸脱しますが、海保ビデオ映像流出事件記事からの行き掛かり上、<トリックスター>に関して少し考えを整理しておかないとこの件にけりがつかないので、以下ややくだくだしい駄文が続きますが、どうか目をつぶってお付き合い下さい。
 さて、<トリックスター>という言葉を文化的・学術的に人物類型の一つとして認知・定着させたのは、周知のとおりポール・ラディンであると巷間言われています。彼が、アメリカ・インディアンのウィネバゴ族が語り継いできた物語(民族の神話)を同族の人物の手を借りて採集して編集・分析し、更にカール・ケレーニィの専門の神話学的立場での解析論文と、C.G.ユングの心理学的な考察を加えた論文と共に一巻の本としてまとめたのが、かの有名なる『トリックスター アメリカ・インディアン神話の研究』なのです。(英語版1956年、ドイツ語版1954年、日本語版は晶文社、1974年。これには、山口昌男氏による「今日のトリックスター論」という解説も付いています)
 この本に載せられたユングの論文は、『元型論』(増補版、紀伊国屋書店、1999年5月)のなかに、いわゆるユングのいう元型の一タイプとして収められるに至って、ユングの<トリックスター>論も負けずに有名になっています。(なお、訳者がラディンの本が河合隼雄氏、『元型論』が林道義氏と異なりますが、私は林氏の訳の方がより懇切な、読んでいて腑に落ちるこなれた訳になっていると思います。)
 ユングの『元型論』の解説のなかで、林氏がまとめた<トリックスター>の特徴は以下のとおりです。
(1)反秩序:無秩序の精神、境界を無視する精神。
(2)狡猾なトリックを使って騙し、それによって自分の欲するものを手に入れようとする性質。
(3)愚鈍:騙したり騙されたりする関係にあるということは、自分も相手も「愚か」であるという特徴を持っていることを示す。
(4)セックスと飢え:本能的・生物的次元に生きている。
 そして最後に一転して、神や君主を欺いて人間や民衆に文化や利益をもたらす、神から火を盗んで人間に与えた”プロメテウス”がその典型である、としています。
 これをまとめると、<トリックスター>は、奔放で無軌道な行為で既成の価値をひっくりかえしてしまう”お騒がせ者”あるいは”道化者”のことで、まずは破壊者の姿をとるが、同時に創造者という側面も持ち、善悪見分けがたい両義性を備え、またプロメテウスのように、人間世界に欠けていたものを外部(異界)からもたらすという文化英雄(culture hero)という面も持つ、ということになります。
 ところで、<トリックスター>は、一般論的テーマとしてはやや語り尽くされた感もあるので、ここでは2つのポイントに絞って少し考えてみたいと思います。。
 ひとつは、いわゆる善玉的な、上記で言う文化英雄という面を併せ持つ存在とは異なり、徹底して反社会的な悪玉に終始した者であっても、果たして<トリックスター>と呼び得るのかどうかということ。
 この点については、国立民族博物館の小川了氏が、西アフリカ、セネガルのフルベ族の村で採録した説話をもとにまとめた『トリックスター 演技としての悪の構造』(海鳴社、1985年7月)という一書がこうした悪童としての<トリックスター>の謎を解明してくれます。ここに出てくる悪童は徹底した悪としての存在で、文化英雄のかけらも見出せません。しかし小川氏は、「わが悪童もまた”世界の隠れた相貌を顕在化させる”トリックスターにほかならない」と言い切ります。もしかしたら、ゲーテの手になる無頼の狐”ライネケ”にまつわる動物叙事詩『ライネケ・フックス』にその先達の姿を見ることができるかもしれません。
 次に、<トリックスター>がユングのいう元型の一つの類型とすれば、元型論に通底する経験科学的な概念を想定した(非個人的な)集合的無意識にたどりつきます。つまり元型とは、林氏によれば、「遺伝的」で「祖先たちの経験の蓄積」の両方が成立する、大昔から人類に備わっている心の行動パターンという事になりますが、果たしてこれを素直に信じ切れるかどうか?
 この本でのユング自身の言葉で繰り返して言えば、「まったく個人的な性質を持った意識的な心の部分だけをわれわれは経験可能な心の部分であると信じているが、しかしそれとは別に心には第二のシステムがあって、これは集合的で非個人的な性質を持っており、この集合的無意識は個々人において発達するのではなく、遺伝していくのである。それは存在に先んずる形式であるいくつもの元型から成り立っている・・・」ということです。
 この大昔から遺伝していく集合的無意識としての元型の一類型が<トリックスター>であるとすれば、ユングの言うように、「内的には未開人である」ことになります。とすれば、ラディンや小川氏がフィールドワークによって集めたアメリカやアフリカの未開社会の神話に多く<トリックスター>が現れるのも、何となく納得はできます。
 しかし、私はフィールドワークから導き出されるこうした<トリックスター>論には、知的遊戯という側面を強く感じます。特に、存在に先だって刷り込まれ、太古から連綿と遺伝されている非個人的な集合的無意識ア・プリオリな元パターンという議論まで行きつくと、学問を僭称したオカルトかな、と思ってみたりします。
 百歩譲って、そうした元型のひとつの類型がありうるとしても、じゃあそれが何だ、という話になります。なぜならば、こうした人物類型についていくら探究し、分類してみても、われわれが生きる現代社会にとってアクチュアルな意義はほとんどないからです。さらに、話を混乱させるために言えば、われわれの誰もが<トリックスター>なる存在にいつでも転化しうる内的必然性(何なら、遺伝子といってもいい)を有していると言うことも可能です。とすれば、こんな議論をいつまでも蒸し返し、手を変え品を変えて繰り返しているのはもはやナンセンス以外の何ものでもないでしょう。
 そんな意味では<トリックスター>的人物はコミックのナンセンスな主人公たちで代表してもらうのが一番無難かもしれません。では早速”ねずみ男”と”ルパン三世”に登場してもらい、このつまらない議論に終止符を打ちたいと思います。